今やいろんな人が悟りや覚醒を語ってますが、それらは定義できるものではありません。
そもそも悟りって掴みどころがなく言語化できないものなんです。
でも言葉でしか表現はできず、語ったとしても、それを指し示すものであって、それそのものではありません。
ソムリエがワインの風味を言葉巧みに表現されますが、その言葉を聞いてもそのワインの味を味覚で感じた訳ではありません。飲んでみないと実際の味を知ることはできないのです。
悟りを語る方々も一緒のような気がします。皆さんソムリエさん達で、これをいかに人に伝えようか言葉巧みに表現していらっしゃいます。
聞き手は、その言葉から想像するしかありません。飲んで味わった者しかその言葉の意味が分からないのです。
でも、悟る人がもっと増えていけば、それらの言葉はいつか共通言語になっていくかも知れません。
さて、私なりに悟りについて表現してみたいと思います。
ここで話すことは一つの比喩であることをご承知下さい。
まず、人にはその人の本質というものがあります。
この本質は何かを認識してるものです。
何かというよりもあらゆるものをです。
この本質は何かに侵されることはありません。
あなたが泣こうがわめこうが何ものにも影響を受けることがありませんし、失われることもありません。
移り変わる現象をただ見てるに過ぎず、心の動きも現象の一つです。
さて、人は生まれてから成長していく過程で、いろんなことを学び、教わり、経験し独自のあり様が形成されていきます。
このあり様は、その人の考え、物の見方などで、あらゆる事において良いか悪いかの物差しが出来上がり、自我というものが形成されていきます。
それがその人自身になり、”私”というものが確立されて行きますが、その自我、”私”というものは、あなたの本質の上に覆い被さってます。
白い画用紙に絵を描くようなものです。描き終わった頃には絵で覆い尽くされますが、その白い紙は白い紙としてなお存在してます。失われることはありません。
仮に消える絵の具があった場合、白い画用紙は元の状態です。ホワイトボードだと分かりやすいですね。
死ぬまで、この自我を用いて生きていく訳ですが、まれにこの自我を脱ぎ捨てることがあります。
脱ぎ捨てるというと何か行為に聞こえるので、自我が勝手に剥がれ落ちると表現した方がいいかも知れません。
脱ぎ捨てた先に残るのはあなたの本質です。
それまで被っていた自我を脱ぎ捨てたら本質が現れます。そして、本質がこの世界を生き始めます。
それが悟りです。
そして、自我の声は薄くなり、本質が顔を出すので、目の前で何が起こっていようが、現実がどんな状況であっても私は侵されることなく、何ものにも影響を受けることはなくなります。
その本質は本当の自分、真我、ハイヤーセルフなどと呼ばれてます。名前は何だって良いのですが、悟ってなくても、時たま、これらを感じていると思いますよ。
ぜひ、それを掴んでみてください。
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