非二元で語られている「私はいない」というフレーズ。

 

たぶん多くの人は何のことを言っているか疑問に思っているかと思います。

 

例えば、私を探した時、実際はどこにも見当たらないとか、私の身体、私の思考、私の心など、それらはすべて「私の」がつき、私そのもではないとか、スマホを例えにしてSiriはいるか?と一緒とか、これらは全て理屈である。

理屈であるからただの解釈である。

それは確かにそうだと納得しても、あ~私はいないんだ~と実感するものではないです。

もし、それに納得して分かったふりして、あ~私はいなんだ~と思い込むのもちょっと危険である。

 

非二元で語られていることは、確かにそうであるかも知れないが、これは考えを構築したものなので、それがそれそのものではないということを知っておいた方が良いと思います。

つまり言葉をいくら追いかけたところで、そこに至る訳ではないということが言いたい訳です。

 

さて、前回の記事で「私がいなくなった」という記事を書いたのですが、この言葉だけ聞くと訳がわかりません。

本人の主観的な体験なので、「自分いね~や」といった感想が出てくるのですが、他に言いようがなく、傍から見るとなんのこっちゃになる。

 

 

 

なくなったものは、ハートの中心にある自分って感覚です。

胸に手をあてて自分に聞いてごらんってやる時に感じるあれです。

これがなくなっていたことに気づいた時、これは私というエネルギーだったと初めて気が付いた。

この私というエネルギーがなくなったのです。

感じようとしても、ない、探しても、ない。だから「自分いね~や」と感じたのです。

 

これが何でなくなるんだと凄い不思議に感じたと同時に、これはいったい何だったなのかが未だに疑問となっている。

その時思ったのは、感情の発火装置?とかエゴの種?などのアイデアが浮かんだが、目覚めていたりするとこれはとても穏やかになっており、心地よさや安心感を運んできてくれていた。

今はないので、そこの部分はスッカスカって感じですが、快でも不快でもなく感じる波がないのである。

 

この私というエネルギーは本人に気づかず常に動いているものと思います。

私の活動の中では、ほとんど頭で認識していることが多いと思いますが、無意識的にこのエネルギーは何かの事象が起きる度に何かの反応を起こしています。

 

あるのが当たり前なので、それを感じていることにも気づかず、次へ向かわせるエネルギーであるような気もします。

次へ向かわせるとは、例えば、足りないを感じた時、何かの衝動が起きることなどです。

つまり、私の活動の中では常にこの私のエネルギーが介入しており、この私をどうにか良い方向へ向かわせようとしているのである。

 

そして、私のエネルギーがなくなれば、私は介入してこないので、これはなんか楽ちんだな~と感じた訳です。

 

この経験を踏まえ分かったことは、「私はいない」とは、私という物体は当然あるが、中心にある私と感じていたエネルギーがなくなったという意味である。

 

「私はいない」というフレーズを広めたあるお方も本ではそのことを言っており、正しく認識されないまま、この言葉だけが一人歩きしているようである。

 

言葉には惑わされますね。