アドルフ・アイヒマン1906年3月19日 - 1962年6月1日

1948年春サイモン・ウイゼンタールはアイヒマンの逃亡経路を確認してます。

1945年4月28日プラハを後にしアルトアウスゼーで目撃されてる。米軍捕虜収容所を隠れ家にした。その後ゾーリンゲンの叔父のもとに身を寄せる。アイヒマン家はこの辺りの出身でアイヒマンはアウスゼーの湖に隠しておいた金を取りに来たのを目撃されている。数名の手を借りてアウスゼーア湖から22個の鉄製を箱をとりだし、それをブラーハルムへ運んだ。
箱の中身は書類とユダヤ人の口から取り出した金冠だった。


フィッシュルンドルフには妻と子供たちが住んでいた。アイヒマンは家族思いで
妻と絶えず連絡を取り合ってた。アントンブルガーがアイヒマンとの伝令役をしていた。
ナチの地下組織が網の目のように張り巡らされオデッサが機能を発揮していた。

アイヒマンはクロアチア人委員会の手で修道院ルートを経由してローマに運ばれローマの修道院にかくまわれた。彼はそこでバチカンの旅券を手に入れた。あの頃オデッサの輸送はブラジルかアルゼンチンだった。
サイモン・ウイゼンタールは常にアイヒマンが家族思いなのに目をつけた。
アルトアウスゼーの家族と連絡をとりいつか呼び寄せるだろう。
殺されたユダヤ人の金冠探しするナチスは沢山いた。

ウイゼンタールは新聞でマリア・アイヒマンの死亡記事を見つけた。これはアイヒマンの継母の名だった。葬式場を望遠レンズで写真をとった。
アイヒマンと同じ顔した男たちがずらりと並んでいた。アイヒマンの兄弟たちだった。この写真をもとにイスラエルの青年がアイヒマン探しをした。


1955年イスラエルから知らせがありアイヒマン夫人がリカルド・クレメントと名乗るドイツ人を同棲してることをつきとめた。アイヒマンだった。

1960年5月23日イスラエル首相デビット・べングリオンが国会でアイヒマンが逮捕されたと言明した。
アイヒマンはアルゼンチン社会に完全に同化していた。職をもち子供たちのよきパパだった。
アイヒマンは裁判中

「私は、私が今ではユダヤ人の絶滅が人類史上最悪の犯罪の1つであると考えてることを認めざるをえません。
しかしそれはすでに起こってしまったことです。私たちはこれから全力を挙げ二度と起こらないようにしないといけません。」


一方トレブリンカ絶滅収容所所長フフランツ・シュタングルは法廷でこんなことを言ってのけた。

「私がユダヤ人をガスで殺すしかなかったのはそうでもしないと収容所が満杯になったからです。」
フランツ・シュタングル


私はサイモンウイゼンタールがトレブリンカ収容所所長を逮捕した時のことを
テレビで語ってたのを記憶してます。

アイヒマンが絞首刑にされるとき。周りのユダヤ人たちを見回し
ニターとして
「皆さんそれではさようなら。またお目にかかりましょう。ニター」

私のクラスではお互いにニターと笑って「それではまたお目にかかりましょう、ニタ^^が大流行になりました。

アルゼンチンにはユダヤ人も戦中戦後沢山逃げててアンネフランクさんのクラスメートも沢山移住してました。
ビクトル・フランクルの「夜と霧」は南米のユダヤ人社会で爆発的に読まれたのです。


ユダヤ人の子とドイツ人の子が同じクラスになっててドイツ人の子がハイルヒトラーとナチス賛美をするのでユダヤ人の子はナチスだなときづいてたそうです。
アイヒマンもこの辺りにいるんじゃないかと感じたそうです。
サイモン・ウイゼンタール

 

ソビボール、トレブリンカ収容所長7フランツ・シュタングルはオデッサの助けを借りて逃亡し南米に新しい故郷を見出したナチ戦犯の超有名人だった。

 

このトレブリンカ収容所長は大量殺害の遂行にあたって格段の功績をあげたことで勲章を授与された。

 

1942年から1943年まで一年間にトレブリンカ、ソビボール、ベルゼックの絶滅収容所からベルリンの国家公安本部に送った物品。

 

女性頭髪 貨車25両分  衣服 貨車248両分 靴 貨車100両分

 

280万アメリカドル。40万イギリスポンド 1200万ソ連ルーブル 14千万ポーランド・ズロテイ 金時計40万個金の結婚指輪14万5千キロ

 

2カラット以上のダイアモンド4000カラット

 

金貨1億2千万ズロテイ。真珠ネックレス数千個

 

ナチは殺人犯だっただけでなく強盗殺人犯だった。

ヒトラーが政権にぎるとユダヤ人は公職につけなくなりユダヤ人が書いた本は燃やされアインシュタインは攻撃の的になった。アインシュタインの家にもフロイドの家にもナチスがはいってきて学術文献を押収していった。 アインシュタインも大学の仕事に復帰できなくなった。 アインシュタインを殺した者に賞金5000ドルを与えるとナチスは宣言した。 1932年からアインシュタインは外国に逃げてましたが殺されるのでもう戻らなかったのです。ユダヤ人学者を国外に脱出させる手助けしてます。 1939年、ハンガリー出身の科学者レオ・シラードが ドイツが原子爆弾の研究に着手していることをアインシュタインに告げた。アインシュタインは非常に心配しヒトラーが原爆を持てば恐ろしいことになると恐怖を感じた。 アインシュタインはフランクリン・ルーズベルトに手紙を書きアメリカも独自に原爆を開発し、ヒトラーを阻止するためにできるかぎりのことをすべきだと 説得した。