シカゴマーカンタイル取引所会頭レオ・メラメド氏が伝記に書いてますが。
歴史上最初に先物取引したのが旧約聖書のヤコブの息子たちヨゼフと12人の兄弟たちで
エジプトで兄弟が再会して以来、パロを救うことにしたそうです。ヨゼフはエジプト王に対し穀物の買いヘッジを行うように説得した。
ヨゼフの忠告によってエジプトは7年間の飢饉を救われた。
その後古代フェニキアやギリシャ、ローマ人がヨゼフの忠告を
さらに発展させた。ヨゼフは近代先物取引の祖である。

 

シカゴマーカンタイル取引所会頭レオ・メラメド氏生年月日:1932年3月20日 (86歳) はポーランド北東部の​​​ビアリストクのゲットーで生まれた。

レオが米国にたどり着いたのは9歳の時だった。レオが小学校に入学する1939年9月1日に世界は激変し元に戻ることはなかった。150万人の子供を含む600万人のユダヤ人がナチに囚われ帰らぬ身となった。

レオは父の聡明さと決意、先見性のお蔭で真夜中に戦火から脱出し徒歩と汽車、おんぼろ船を乗り継いでいくつも国教を越えた。リトワニアの日本領事館で杉原千畝氏のお世話になり杉原ビザをゲット。2年をかけ
シベリア横断、日本海をわたって神戸市にたどりつく。
米国への渡航を許可されたのは真珠湾攻撃の数か月前だった。

しかしメラメド氏の親戚は。ビザンチン様式の大シナゴーグがビアリストックにあって1941年7月3日ナチはシナゴーグ近くに住んでるユダヤ人800人をかき集めシナゴーグに押し込んだ。

そこにはレオの祖母、父の妹,従兄妹全員が含まれてた。

ナチはユダヤ人を押し込むと扉を封印し外からガソリンで火をつけた。残ったユダヤ人は絶滅収容所に送られガス室で殺戮された。

レオの親戚は全員殺された。



レオが米国にたどり着いたのは9歳の時だった。両親がかくれんぼのようにゲシュタポやKGBから逃走するのを見てきた。その間にイデッシュ語、ポーランド語、リトワニア語、ロシア語、日本語、英語6カ国を学んだ。
彼の父は数学の教師だったがユダヤ人なのに​​​ビアリストクの市会議員に選ばれた。これは大変名誉なことだった。
レオは数学やイデッシュ語の教師である父から経済学を叩き込まれた。

父が大阪で商取引するのを見て商売を学んだ。
国境が変わるたびに父はポーランドのズロチをリトワニアのリタスに変えリタスをロシアのルーブルに変えルーブルを日本の円に、円を米国のドルに替えた。この各々の価値は常に変動してるものであることを息子に説明した。

 
レオの父は万能人間で家の大工工事、配管工事をやり水洗トイレも作った。父の大工仕事のおかげでレオの家は周囲の家に圧倒的差をつけていた。

 レオはルーズベルト高校に入学するまではあがいてばかりいる不幸な青二才だった。
ユダヤ人はここで異教徒からあいさつ代わりに「汚いユダの馬鹿野郎!!」という言葉を浴びせられて育った。
 それでもニューヨークのイーストサイドに移り住んだユダヤ難民が味わった苦労と比べたら天地の差だった。シカゴのほうがましだった。

カーク・ダグラスもスピルバーグも毎日「イエス殺したのはお前だろ!!」と叩かれモグラして育った。
​イエスなんて知らないおじさんをなんで自分が殺すんだよ?​

だけどロシアでコザックに兄の一人が脳天を射抜かれ命からがらロシアから逃げてきたカークダグラスの母から見ればニューヨークは天国だった。それくらいロシアじゃ地獄をさまよったのだという。

ビアリストク生まれの有名人エスペラントの創案者眼科医のルドヴィコ・ザメンホフ。
彼の息子と2人の娘は全員アウシュビッツの煙と消えた。

オールドボリシェビキのマクシム・リトビノフ

ポリオワクチンの開発で知られる アルバート・サビン、、

イスラエル首相イツハク・シャミルの出身地でもある。
レオと妻子孫たちがビアリストクを訪れた時、ビアリストクの市長は彼にこうあいさつした。
ビアリストクの最後の生き残りユダヤ人が3週間前に亡くなられました。

あんなに沢山ユダヤ人が住んでたのに最後の一人が死んじゃったなんて!!
 1939年ビアリストクには人口の6割10万人を超えるユダヤ人が住んでていた。シナゴーグの数が人口に比し多かった。

 
戦前のビアリストクはポーランドを代表する織物と衣料の生産地であった。
 
戦後1100人のユダヤ人がビアリストクに戻ってきてナチスに壊された墓地を修復した。この墓地に3500人のゲットーの犠牲者が葬られ記念碑がたてられた。
しかし1971年共産党に先導された反ユダヤ人活動で次々にゲットーの墓地が破壊され記念碑は粉々にされた。

少年時代
ビアリストクに住んだイスラエル首相イツハクシャミルは「ポーランドの若者がナチスでさえやらなかったことをした。彼らはユダヤ人墓地を完全に破壊した。」と抗議した。
 

レオの両親はビアリストクでユダヤ文化の先頭に立って活動していた。

​レオ氏がナチスの追跡をかいくぐって杉原ビザで大陸横断しアメリカに到着したあと。
 シカゴでマーカンタイル取引所のトップになってもレオ氏の心の中にはいつも生まれ故郷ビアリストクへの思いがあった。
 
 彼の両親もビアリストクで生まれ育ち教育を受け教師となり結婚した。そこへ一緒に行かないかと誘っても両親はかたくなに拒んだ。
「そこには私のために残ってるものは何もないからね。」

シカゴに来ても両親の心の中はいつも旧世界の思い出が占領しててイデッシュ語の世界から離れられなかった。
ビアリストクでは両親はいつも自宅に知識人グループを呼んで議論していた。そこで話題になるのは常に
ユダヤ文化の中心地ワルシャワのことだった。ワルシャワは文学、劇場、政治、詩歌で抜きんでていた。
ワルシャワとリトワニアのエルサレム、ビルナが抜きんでていてユダヤ文化の中心地だった。
ビルナは世界的バイオリニストヤッシャ・ハイフェッツを生んでいる。​

 




レオ・メラメドはシカゴ、イデッシュ劇場でイデッシュ劇の俳優をしニューヨークでもイデッシュ俳優として認められてた。

 

•完璧なイデッシュ語で詩を朗読しラジオでユダヤ人向けのメロドラマに出演していた。

レオの父はアメリカ人のスポーツ観戦好きについていけなかった。あんなんに熱狂してたらアホになると論じていた。
アメリカ人のトランプ好き。ポーカーやブリッジも悪魔のゲームに感じレオがブリッジ選手権大会に出るのに猛反対だった。

 

•その後メラメドが妻と娘4人の孫とともにワルシャワに降り立ったとき、父が言っていた言葉が真実だったと悟った。彼の古きワルシャワへの夢は無残に打ち砕かれた。

彼が見たものは特徴のない都市であり、大戦後共産主義者が復興した安っぽい都市であり過去の歴史的建造物の跡形もなく消え失せた都市だった。

•そこにはユダヤ人はいなくて、レオにとってユダヤ人の居ないワルシャワはアゼルバイジャンの首都とイコールだった。

イデッシュ語が街から消えていた。

 

ユダヤ人の記念碑を見て彼らを襲った恐怖が再度襲いかかってきた。

記念碑に刻まれた犠牲者の氏名。

レオが愛し口ずさんでたイデッシュ語の詩。偉大な詩人イサック・カテネルソンはアウシュビッツの煙となる。


ポーランドの物理学者ヤヌシュ・コルチャック先生。彼は死をまぬがれるはずだったのに子供たちと一緒にトレブリンカのガス室に消えた。


中東系のミズラヒムのラビでワルシャワ地下活動のメンバー。イツハク・ナイセンバウム。彼もトレブリンカで死去。
 

ワルシャワゲットー蜂起のリーダーとなり恋人ミラとともに死んでいったモルデハイ・アニエレビッツ

•アニエレビッチ享年24歳。ミラ享年23歳。一緒に闘って一緒に散ってったんだね。ミラが居たから孤独じゃなかったんだね。

 




 

 

 ゾラフ・バルハフティク氏と杉原千畝
 ナチス占領下のポーランドやウクライナで。勝ち馬に賭ける多くのポーランド人ウクライナ人がユダヤ人狩りに手を貸した。ユダヤ人でユダヤ難民の救出活動を続けてきたゾラフ・バルハフティク氏が書いていた。

 

 

戦前ポーランドのユダヤ人社会は世界一を誇り豊かな文化と伝統を持っていた。ポーランドのユダヤ人社会はポーランドの歴史と同じくらい古かった。

 

しかしポーランドユダヤ人の生き残りはアメリカとイスラエルに逃げてゆき事実上消滅してしまった。ルーマニアもハンガリーもユダヤ社会が再建されたけどポーランドでは再建できなかった。生き残りのユダヤ人はポーランド人から敵意を持って迎えられた。財産ぶんどった者が財産の返還を恐れた。帰ってきたユダヤ人はナチ協力者たちに殺され路上を歩くのも危険になった。

 

ヒトラーはポーランドをユダヤ人絶滅の地に選んだ。ポーランド人はヒトラーのユダヤ人絶滅計画の完結に熱心だった。

 

戦後のポーランドでまたしてもポグロムが起こった。ユダヤ人がキリスト教徒の子供をさらって血の生贄に使うという中世からの誹謗中傷がまたしてもよみがえった。

 

 戦前は350万人もいたポーランドユダヤ人なのに戦後残ったのは1万人である。

 

 

 戦後のアウシュビッッツで。ポーランド新政権はアウシュビッツ犠牲者の中にユダヤ人がいたことをなせか一言も書かなかった。このことでユダヤ人から批判を受けユダヤ人のことを少し書きくわえた。

ポーランド人ガイドはアウシュビッツで言語を絶する虐殺が起きたことは語るがユダヤ人虐殺に関しては一言も触れなかったという。

 

ゾラフ氏は1946年2月14日ワルシャワを訪れた。ワルシャワを離れて7年4か月たっていた。ゲットー地区ユダヤワルシャワに走っていくと地上から完全に抹殺されていた。繁栄せる街、ヨーロッパに誇るユダヤワルシャワ。多くの優れた学者、作家を輩出したユダヤワルシャワ。活気あふれる商工業都市がアザミの廃墟に、

 

 自分の家もなく神学校、大シナゴーグ、図書館、商店街建物もなく土台もなく棘のある雑草とアザミが生い茂る見渡す限りの廃墟だった。キリスト教徒ワルシャワだけ残っていた。唯一残るユダヤ人墓地に行き墓石に身を寄せて泣いた。

 

ニューヨークに戻るとポーランド人連盟に呼ばれて視察報告をした。ホールはポーランドユダヤ難民でいっぱいだった。

 

氏は演壇にあがり「ユダヤワルシャワにはユダヤ人墓地以外何も残っていませんでした。」すると最前列に座っていたポーランドのロスチャイルドと言われた銀行家

 

ラファエルシェルシェブスキーがいきなり立ちあがり「嘘だ嘘だ嘘だ!!!」と叫びながらホールを出て行った。広い会場は凍りついたように静まり返り誰も口がきけなくなった。

 

ポーランドのロスチャイルドは狂乱し2年後亡くなった。







メラメド氏は大学に進学する頃文学青年でロレンス・ダレル、アーネスト・ヘミングウエイ、オルダス・ハックスリー、ジェームス・ジョイス、トーマス・マン、ヘンリー・ミラー、レマルク、、などの本から終わることのない教育を授けられた。こういう巨匠たちと個人的に友達になった。レオ氏はシカゴの公立図書館から読書の自由賞を授与されたのだった。これは根っからの教師である両親から経済学だけでなく文学、自分を教育することを
教えられたからだった。