19世紀のアメリカで。
アフリカ大陸から運ばれてきた黒人奴隷の数は1200万人にも昇ったといわれる。プランテーションでの労働は過酷をきわめた。奴隷主は気に入らないことがあると奴隷を鞭打って憂さはらししていた。

こうした哀れな奴隷たちを南部の州から北部の州やカナダまで逃がす手助けしてたのが地下鉄道という秘密結社だった。

奴隷解放論者は地域ごとに班をつくってたので逃亡奴隷をエスコートする人物は地域ごとにチェンジした。

地下鉄道のメンバーは数千人はいた。逃亡ルートはアメリカ東部から北西部一体に網の目のように張り巡らされていた。逃亡中の奴隷は昼間は地下鉄道メンバーの家にかくまわれ夜間に移動したのである。

隠れ家がない時は森や沼地に潜んだ。
南部では奴隷に逃げられてると新聞に奴隷の情報を掲載し奴隷を捕まえた者には主人から賞金が払われた。
逃亡支援者たちは1810年から1850年の間に3万人から10万人もの奴隷を北部に逃したといわれる。

南部では奴隷が減少して奴隷の価格が高騰し安価で奴隷を買えなくなった。

その結果工業技術が進んだ北部との格差が広がり南北戦争につながった。
リンカーンが奴隷解放宣言をし南北戦争で奴隷が勝利すると。
奴隷を逃がす必要もなくなり地下鉄道はその役割を終了した。