https://www.youtube.com/watch?v=zOYu8ATVOY4この動画にゾラフさん沢山出てきます。

 杉原千畝氏とゾラフ・バルファテイック氏
  ナチス占領下のポーランドやウクライナで。勝ち馬に賭ける多くのポーランド人ウクライナ人がユダヤ人狩りに手を貸した。

ゾラフ・バルハフティク

 


ユダヤ人ユダヤ難民の救出活動を続けてきたゾラフ・バルファテイック氏が書いていた。

戦前ポーランドのユダヤ人社会は世界一を誇り豊かな文化と伝統を持っていた。ポーランドのユダヤ人社会はポーランドの歴史と同じくらい古かった。しかしポーランドユダヤ人の生き残りはアメリカとイスラエルに逃げてゆき事実上消滅してしまった。ルーマニアもハンガリーもユダヤ社会が再建されたけどポーランドでは再建できなかった。生き残りのユダヤ人はポーランド人から敵意を持って迎えられた。財産ぶんどった者が財産の返還を恐れた。帰ってきたユダヤ人はナチ協力者たちに殺され路上を歩くのも危険になった。
ヒトラーはポーランドをユダヤ人絶滅の地に選んだ。ポーランド人はヒトラーのユダヤ人絶滅計画の完結に熱心だった。戦後のポーランドでまたしてもポグロムが起こった。ユダヤ人がキリスト教徒の子供をさらって血の生贄に使うという中世からの誹謗中傷がまたしてもよみがえった。
戦後のアウシュビッッツで。ポーランド新政権はアウシュビッツ犠牲者の中にユダヤ人がいたことをなせか一言も書かなかった。このことでユダヤ人から批判を受けユダヤ人のことを少し書きくわえた。
ポーランド人ガイドはアウシュビッツで言語を絶する虐殺が起きたことは語るがユダヤ人虐殺に関しては一言も触れなかったという。

戦前は280万人もいたポーランドユダヤ人なのに戦後残ったのは1万人である。

 

 
ルーマニアユダヤ人エリヴィーゼルが書いていた。
東ヨーロッパのとある町にイエスキリストが戻る話を。

生まれ故郷のシュテットルで、イエスは自分の民をさがしていた。

私の兄弟たちはどこにいますか。
ユダヤ人たちはどこですか。  殺されました。
子供たちはどうしました?どこです?殺されました。

シナゴーグはどこ? 焼かれました。
ユダヤ人たちの家はどこ?  略奪されてしまいました。
イエスは声をあげて泣き始めた。

すると住民は彼もまたユダヤ人に似ていることに突然気づく。
そして彼らは叫びだす。見ろ!こいつもユダヤ人だ!
そして彼らはイエスも殺してしまった。
 

この運命が直撃したのだった。この運命が直撃したのだった。
ゾラフ氏は1946年2月14日ワルシャワを訪れた。ワルシャワを離れて7年4か月たっていた。ゲットー地区ユダヤワルシャワに走っていくと地上から完全に抹殺されていた。自分の家もなく神学校、大シナゴーグ、図書館、商店街建物もなく土台もなく棘のある雑草とアザミが生い茂る見渡す限りの廃墟だった。キリスト教徒ワルシャワだけ残っていた。唯一残るユダヤ人墓地に行き墓石に身を寄せて泣いた。
ニューヨークに戻るとポーランド人連盟に呼ばれて視察報告をした。ホールはポーランドユダヤ難民でいっぱいだった。
氏は演壇にあがりユダヤワルシャワにはユダヤ人墓地以外何も残っていませんでした。」すると最前列に座っていたポーランドのロスチャイルドと言われた銀行家
ラファエルシェルシェブスキーがいきなり立ちあがり「嘘だ嘘だ嘘だ!!」と叫びながらホールを出て行った。広い会場は凍りついたように静まり返り誰も口がきけなくなった。
ポーランドのロスチャイルドは狂乱し2年後亡くなった。

https://blogs.yahoo.co.jp/lemongi15/34400489.html

ナチスはこのワルシャワゲットー解体工事をギリシャユダヤ人をひっぱってきてさせていた。

 

ワルシャワ生まれのユダヤ人でユダヤ難民の救出活動を続けてきたゾラフ・バルファテイック氏が書いていた。杉原ビザで沢山ポーランド、リトワニアから日本にユダヤ難民が逃げてきた時。日本でユダヤ教探究してる日本人はユダヤ教知るチャンスなんで大歓迎した。
日本人なのにユダヤ教に改宗したアブラハム小辻氏。
小辻節三氏は京都の下賀茂神社の神官の家の人です。方丈記書いた鴨長明も下鴨神社神官の家の人だった。

小辻氏は家に宗教書はいっぱいあるのだけどユダヤ教への関心がおさまらず何とか知りたいと願った。そこへ杉原ビザのユダヤ人が到着した。
ユダヤ教を学ぶチャンスと大喜びだった。氏はラビと神学生に特に心打たれた。
ゾラフ氏は日本のインテリが精神的・知的危機に直面してることを感じた。二人は日本史ユダヤ史について語り合った。

ゾラフ・バルファテイック氏と小辻氏がユダヤ教研究グループを作ってたがそこへ三笠宮殿下も討議に参加に来られた。

小辻氏はイスラエルに渡りユダヤ教に改宗した。ゾラフ氏は改宗に助力した。
アブラハム小辻氏はユダヤ難民の日本滞在期間を延長するよう助力してくれた。
イメージ 1イメージ 2
ドイツ軍がウクライナ、リボフに進駐した1941年6月22日
ウクライナ人とドイツ人がポグロムを犯した。
 
ゾラフ・バルファテック氏の姉グルニア・オクスはこのポグロムで殺された。
ゾラフ氏の姉
イメージ 3イメージ 4ゾラフ氏の妻、親族のほとんどがトレブリンカで殺された。
https://www.youtube.com/watch?v=6YoB-_oRw-U&list=RD6YoB-_oRw-U#t=2147日本のシンドラー 杉原千畝物語 六千人の命のビザ
という動画見てたら杉原さんの領事館に最初にビザのお願いに来たユダヤ人の代表の一人がゾラフ・バルファフテイク氏だった。

https://www.youtube.com/watch?v=6YoB-_oRw-U&list=RD6YoB-_oRw-U#t=2147


杉原千畝さんの命のビザの動画です。
真夜中、領事館にラトビアの神学校のラビが訪ねてきた。カバンに350人分のパスポートをぎっしりつめてきた。「どうかお願いです。私の神学校の350人の生徒の命を助けてください。私の命はどうなってもかまいません。子供たちだけでも助けてやってください。他の神学校の教師も生徒も皆殺されてしまいました。残ってるのは私の神学校だけです。」

ナチスが最初に皆殺しにしたのはユダヤ教のラビと神学生だった。次に子供たちだった。ナチスはユダヤ教の中核を徹底的に絶滅しようとしたのだった。




ワルシャワゲットー蜂起をカトリック教徒の詩人でノーベル賞受賞者のチェスワフ・ミオシュはゲットーの塀の外側からこんな詩を作って歌った。

 

 

 炎上する建物からときおり風が吹き

 

黒いものがひらひらと舞い

 

回転木馬の上から

 

それをつかむものがいる

 

火事場に吹く風が

 

女の子のスカートをめくる

 

陽気な群衆は笑った

 

美しいワルシャワの日曜日に

 

   

 

美しいワルシャワの日曜日に 壊滅寸前のゲットーと春の日の日曜日の他愛もないポーランド人の日常とのグロテスクな対比をとおしてミオシュはこの悲劇を歴史的教訓として後世へ歌い継ごうとした。

 

​ヘディ・ラマー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BC

絵映画サムソンとデリラのデリラ役演じた女優。

女優であり発明家。無線ランや​携帯電話の基礎をつくり「全米発明家殿堂」入りしている。
彼女の出身地がこのポグロムが起きたガリチアのレンブルグだった。彼女がもしまだレンブルグにとどまってたらポグロムで殺されてただろう。