杉原千畝さんに助けられたユダヤ人は6000人以上いる。http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/39773301.html
シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)名誉会長のレオ・メラマッド氏とか。大学の数学の教授とか。
あの人たちはポーランドユダヤ人で車や列車を使うこともできず徒歩でカウナスにたどりついた。農夫の干し草車に隠れさせてもらい移動したけどナチスが干し草を槍で突くので発覚してしまった人もいた。
杉原ビザが受け取れなかったユダヤ人はダッハウに送られた。
苦難に遭いつつウラジオストクに到着した彼らは、敦賀行きの船に乗船した。そして彼らはソ連の領海を出て日本が見え出した瞬間に喜びを爆発させ、ある歌を合唱し始めた。それは後にイスラエルの国歌となった歌であった。
イスラエル国歌になってるハテイクヴァです。https://www.youtube.com/watch?v=xSwopyigAvc
イスラエルの首相メナヘム・ベギンがこの歌をイスラエル国歌に選んだ。
というのは彼の家族は全員ナチスに殺されたのです。
主の御名をたたえながら愛唱歌「ハテイクボ」を歌いながら死の場所へ歩いて行ったであろう父親の姿がベギンの心にはいつもあった。
東欧のユダヤ人は希望という名のこの歌を讃美歌としていつも歌ってたんです。
心に秘めて今もなお,
ユダヤの魂が呼んで、
そして東方の岸へ、前へ、
目がシオンを目差している限りある――
我々の、希望はまだ失われていない、
その2千歳の希望とは、
自由なる民として生きること、
シオンの地、エルサレムの地において
ベギンの家族は1941年6月、他のブレスト・リトフスク(現在ベラルーシ。当時はポーランド領)にいた約5000人のユダヤ人とともにナチスに捕らえられ、父親は収容所に送られることも無く射殺、もしくは川に沈められた。また母親と兄のヘルツルは強制収容所で殺された。
↓ベギンと両親
. あの歌の作詞はナフタリ・ヘルツ・インベルというガリチア出身のヘブライ語詩人。
作曲はサミュエル・コーエンというベッサラビアユダヤ人
ナフタリ、コーエンという名を聞くだけでじーんと来た。
ユダヤ教には2つの宗派があり
厳しい戒律のハシデイームと伝統的ユダヤ教ミドナクデイーム。
ハシデイームの拠点がリトワニアのカウナスでミドナクデイームの拠点がビリニュスだった。どちらもリトワニアのエルサレムだった。
杉原千畝さんの領事館もカウナスだった。
全身全霊で戒律を実行するハシディズムはポーランドからリトアニア、ロシアに広がった。18から19世紀にかけて東欧ユダヤ人の半数はハシディームを信奉していた。黒い帽子、顎鬚、黒装束のユダヤ人がカウナスに集まってたんね。
あの映画でカウナスを見れてうれしかった。
杉原千畝さんの命のビザの動画です。
真夜中、領事館にラトビアの神学校のラビが訪ねてきた。カバンに350人分のパスポートをぎっしりつめてきた。「どうかお願いです。私の神学校の350人の生徒の命を助けてください。私の命はどうなってもかまいません。子供たちだけでも助けてやってください。他の神学校の教師も生徒も皆殺されてしまいました。残ってるのは私の神学校だけです。」
ナチスが最初に皆殺しにしたのはユダヤ教のラビと神学生だった。次に子供たちだった。ナチスはユダヤ教の中核を徹底的に絶滅しようとしたのだった。


杉原千畝以外に唯一ユダヤ人救助に意欲を見せていたのがオランダ領事館のヤン・ツバルテンデイク名誉領事だった。ユダヤ難民たちはこの名誉領事から日本領事館が通過ビザを発給する可能性があることを聞かされていた。ツバルテンデイクは1940年5月オランダがドイツに占領されたあともオランダ領キュラソーなどにビザを発給し続けた。しかしキュラソーには日本を経由しない限り行くことはできない。
杉原は数回にわたり日本政府にたいしてビザ発給の許可をもとめて電信を打った。しかしその都度要請は却下された。杉原は「私は政府に背かざるを得ないかもしれない。しかしそうしなければ神に背くことになる。」
杉原は単身でソビエト当局との交渉に乗り込んだ。ソビエト当局は杉原の完璧なロシア語に感嘆した。
しかしロシア側が杉原の要請を呑むことにした背景には
ユダヤ難民から通常運賃の2倍をとることにして、その差額を自分たちのポケットに入れることができるという事情があった。
翌朝杉原は領事館の外のユダヤ難民に向かって叫んだ。「ビザを発給します。」
通過ビザに必要な費用は米ドル、の値段にすぎない。しかし脱出に成功する確率も宝くじに当選する確率位きびしかった。