カークは子供の頃ひどい貧乏で食べるものにも事欠く毎日だった。
ひもじさのあまり7人の子供たちは「お腹すいたお腹すいた。死んじゃうよー」
泣きわめいてたら母さんは金切り声をあげた。「ないったら。何もないのよ。母さんにどうしろっていうの
わんわん泣きながら母さんは家を飛び出した。

。カークが姉とピクニックに出かけたとき、バターのついたトーストパンしか食べるものがなかった。
横に座ってた2人連れが同情したのかケーキとミルクを分けてくれた。

パリでも特に美しい橋ポン・アレクサンドル・トロワ
1881年から1894年までロシアを支配してたアレクサンドル3世

カークの両親がロシアを離れるきっかけとなったあの皇帝の名前に因んでつけられた橋と聞くと気分悪くなり橋に唾を吐きかけずにおれなかった。

私はカークダグラスが作った映画「スパルタカス」が好きで好きで仕方なかった。ジョンFケネデイ大統領もスパルタカスが大好きで吹雪の中をホワイトハウスを抜け出して映画館に観に行ったという。

スパルタカスはロシアでも大人気となり
ロシア人は主人に反旗を翻した奴隷の反乱をロシア革命と重複させて考えた。
ソビエトの学校ではスパルタカスの反乱を教えるのに長時間かけるという。

カークは自分の人生がここで円環を描き切ったと考えた。
アメリカに渡った貧しいロシア移民がここでロシア移民の物語を完成させたのであると。

スパルタカスに彼は3年の年月を費やしたが、、本物のスパルタカスがローマ帝国相手に戦い死んでいった日々よりも長い歳月だった。

「こころざしを果たしていつの日にか帰らん」
 

カークはついに志をはたし、父祖が石を持て追われる如く逃げてきた国に錦を飾った。
1966年モスクワに行ったときモスクワのユダヤ教会を訪問したくなった。礼拝をしてるであろう土曜日の朝行きたいというとオーケーされた。

行ってみるとなるほどユダヤ人らしい老人が60人くらいいて熱心祈っている。若者は一人も居ない。

ホテルに戻って案内役に「よかった。少なくともユダヤ人が来て祈る場所がモスクワにはある」

すると案内役は「カーク、ショック受けちゃいけないよ。俳優カーク・ダグラスが土曜日にシナゴーグ見たがってるって情報が流れたんだよ。それで当局は大慌てで俳優協会に連絡したのさ。
年寄りのユダヤ人60人衣装を着けて教会で祈らせてくれ。」

1958年
カークダグラスはエリザベス・テイラーの3番目の夫で映画製作者のマイケルトッドから「夫婦同伴で俺の飛行機に乗らない?飛行機旅行しよう」と持ちかけられた。

ところが何故かカークの妻アンが行きたがらず「悪い予感がするわ、飛行機に乗りたくない」と言い張った。あんまり拒絶するので申し出を断った。

 その日リズも高熱をだし飛行機に乗れなかった。マイクトッドは他の仲間を誘って出発した。
その日車を運転中臨時ニュースが飛び込んできた。

「映画80日間世界一周の製作者マイケルトッド操縦の飛行機が墜落しました。」

25歳年上のマイクに運命的な出会いを感じて結婚したリズだったがたった18か月で結婚生活は終了した。しかしマークもリズも運が強い。

あれから33年。
1991年2月、74才だったカーク・ダグラスが乗ったヘリコプターが墜落した。

若い二人の命が失われたというのに、彼ひとり生き残った。かれだけが生かされた意味を問うため、サタンの鏡という本を書き続けた。友人、スティーブン・スピルバーグがほめてくれた。

カークは立派な息子4人にめぐまれたけど末っ子の、エリックは、薬物過量摂取による入院や、飛行機内での揉め事による逮捕を繰り返し、2004年に自宅のアパートで死体で発見された。

長男マイケルは咽頭癌を克服した 。
カーク・ダグラスは1918年12月9日生まれ。私の母と同じ年で母より7日早く生まれている。私の母は4年前死んでしまった。

カークはどうしてるんだろか?