教習をしていると、もっといい指導方法がないかと考えます。
そこで先日考えていたのが今回のタイトルにもある「観の目」と「見の目」です。
宮本武蔵の『五輪書』に出てくる言葉で、相手(敵)をどのように見るかを説いてます。
「他の交通を敵ととらえて、宮本武蔵のこの考え方を安全運転に応用できるのではないか?」という考えになったわけですが、やはり「新しく思いついた!」と思ったものは大抵は過去の誰かが既に考えているものですね……ありました。
交通安全教材としての観の目、見の目が。
でも既に教材として使われているものと図らずしも同じ見地に立っていたことに指導員としての成長を感じ、内心けっこう嬉しかったです。
それで、五輪書を知らない方のためにも具体的な話をしてみます。どちらも「観る」と「見る」で同じようなのに、何が違うんでしょうか?
観の目は、全体を見る目です。
見の目は、局所を見る目です。
宮本武蔵は、局所ほど弱く見て、全体ほど強く(重点的に意識して)見ることを説いています。
相手の刀に注視するのではなく、相手の全体を見て刀が振られるシグナルを感じるのがよい、みたいな…(昔の言葉なので現代語訳が難しいです)。
もちろん局所的な部分を常に弱く見るわけではないと思います。
例えば、対向車とすれ違う前に左側の歩行者を追い抜く場合を考えると、歩行者の横を通るときは、歩行者の動向を見るために局所的な注意が必要ですから、その時はしっかり一点を見て、対向車との距離は全体の目でなんとなく感じながら走るはずです。
つまりこのように、全体の注意量と局所の注意量のバランスを連続的に切り替えて、基本は交通の流れ全体をよく見て、必要な時にだけ全体に向けていたその大きな注意力を局所的な場所に注ぎましょうね、という風に解釈できるかなと思います。
でも皆さん注意してください、学科の問題の「運転をするときは一点を注視するよりは、ぼんやりと全体を見た方がよい」の答えは、、
×ですからね……。
これは「ぼんやり全体」が間違いで、一点集中ではなく多点に集中をしたい、でも人間はスマホのカメラのように多点にピントを合わせることは出来ないから、たえず視点を動かしてキョロキョロして下さいね~ということが言いたいのでしょう。ぼんやりし続けてはいけません。
そりゃあ視界全体はどう頑張ってもぼんやりしか見えません。人間だもの。そのぼんやり状態で走っていくのではなく、ぼんやりの中で見つけた危険源をひとつひとつピックアップしてピントを合わせていきましょうね、という事でしょう。日本語って難しいですね。
普段車を走らせるときは、視野の端のピントの合っていない場所で何かが動いたりして「ん?何か出てきてる?」と怪しんでそこにピントを合わせたりするわけで、(それは当然のこととして)「ピントを合わせる場所をたえず変えていきましょう」ってことが言いたいんですもんね!
やはり観の目、全体の視野を広く強く持つことが重要だと思います。
危険になる場所を把握していないと、そこにピントを合わせることさえできないんですからね…。