先日先輩と話しましたが、「神様は見てる時と見てない時がありますよね。」という話で同調しました。
幸不幸のどちらかに極端に振れる時は、サインなのかもしれません。
なんらかのメッセージだと私は思っています。
最近、山の中で青い鳥を見ました。
コルリという鳥で、私のような初心者がそんなに簡単に見れる鳥ではありません。
同行者は鳴き声でコルリだと気づきましたが、小さい鳥なので、早々に見つけるのを諦めていました。
私はしばらくそこで探し続けてみました。
二本の木の間の奥に、向こう側を見て囀っているオスのコルリを見つけました。
その1時間後くらいから、流れが変わっていくように、外からいろんな連絡が入り出しました。
その流れに逆らうことなく、途中まで進めていた引っ越しの手続きを中断し、違う地域で手続きをしたり、いろんな予定変更をしました。コルリが運んできた、と言っても過言ではないような不思議な流れでした。
こういうことは生まれて初めてかもしれません。
わたしが「わたし」を助けにいこう。という本を読みました。
自分の体の感覚としてある恐怖の理由が、なんとなく分かるような気にさせてくれる本でした。
恐怖について、他者に説明するたびに、「考えすぎだ」と、切り傷に塩を塗り込むようなことを言われたりして、言って損したと後悔することばかりでした。
恐怖というのは自分を守るためにあるもので、自分を生きさせようとするものです。
私は明確に地元に対してのトラウマ、つまり学生時代のいじめのトラウマを持っていましたが、
頭では過去のことだと分かるのに、身体は20年以上前のことを根に持ってまだ危険信号を出してきて、困っていました。
頭と身体だったら、身体からの信号の方が遥かに強力だからです。
恐怖というものをなくすことはできないけれど、
恐怖が生まれた原因と、自分を守ってきてくれたもう一人の自分と対話することで、
もしかしたら過去と向き合えるのかも、と思えるようになりました。
そんな内容の本でした。
分かりやすく、実践的な本でした。
出会いや、言葉、人もそうですが、
いろんなものが、その人に必要なタイミングで手に入るよう、
どこかの誰かが根回ししてくれているのかもしれない。。そんなふうに思うことがあります。
海で出会った蝶々やカモメ、突然目に入った本、出会ってきた人、
偶然性の中にこっそり、必然的に出会うものが隠れているのかもしれません。
それはおそらく、時が経ってみないと俯瞰的に整理できないことですが。
神様など実際はいないのかもしれません。
ですが、本当に困ったら人は神に祈るとも思います。
神の存在を願うのが、人の本来の在り方かもしれません。
私も何度も祈った気がします。
この1年は、この人生の中でも5本指に入る程には苦しかったけれど、私の心が定まらないうちは、神様はサポートらしきことは何もしてくれませんでした。非情だと思えるほど。
いろんな人が優しさをくれているのに、自分で方向を変えれない頑なさがあり、その間はしんどいままでした。
心が定まり出してからですかね。
このやり方でやっていこう、もうこれ以外に方法がない、と腹をくくれた時に、本当に少しずつ、風向きが変わってきた気がします。
それは、「何かを選んだ」というより、「もう何かを選ばないと決めた」ということだったと思います。
「もうこれ以上は無理なので、あとはお任せします。」
そんな感覚で今も過ごしています。
一歩出して、二歩目が見えたら、そこに進む。
先のことを考えるのをやめ、今の気持ちでしばらくやっていくつもりです。

