今、私の周りには、何かに耐えて何かを得てきた人がたまたま沢山います。
そういう人を反面教師にして、淡々と物事を遂行しています。
何かに耐えてきた人の言葉より、耐えることをやめ自分に優しく生きることを選んだ人の言葉の方が、私にとっては深く厚みがある響きを持っています。
耐えてきた人は、たまたま恵まれた体質や環境があったから耐えられてその先まで行けた訳ですが、なぜかそういう人ほど、他人にも耐えることを強要したりします。それは「〜すべき」という語尾で語られることが多く、よくよく観察してみると、本人の言葉ではないのだと気づきます。社会が世間に押し付けた価値観を、本人が吸収してしまっているものなのです。それは一度くっつくとなかなか離れてくれない厄介なものです。

私が半ば病みながらこの何年かを過ごして感じてきたこと。
光のない真っ暗な世界を見たことがある人は、そこで見たものが人生の中の柱になっていくように思います。
少しでも光がある状況で苦しむのと、全く光の見えない状況で苦しむのでは、出てくる答えが全く違うように思いますから。話している言葉の感触で、その人の経験は見えてきます。
希望は絶望のすぐ近くにある。
近くにない時もありますが、もし何か見えたときには、それが一番大切なものなのだと思います。
今日たまたま、耐えて頑張って家庭や地位を築いてきた人の話を聞いて、少しも感動しない自分がいました。話が全然頭に入ってきませんでした。嫌なら逃げれば良いのに、無理して頑張ることを美徳としても、誰も幸せにならないよなぁ、と。
人生は耐えるためにあるのではありません。
自分が本来の自分に近づいていくためにあるものだと思います。
楽しいとも苦しいとも思わなくなってきたこの最近は、やはり自分の中の最終局面に近づいてきてるのだと、変に誇らしくなったりします。どうでも良い訳ではないのに、逃げたきゃ逃げればいいし、別にどうでもいいやと冷笑する自分がいます。嫌なことがあっても、楽しいことがあっても、無関心な自分がいます。
そんな自分に対し「生きるための逞しさが少しはついたのかな」と思える気がします。
