午後は休みをとり、やるべきことを残したまま寝る。

日が暮れてから目が覚めて、近くのスタンドにバイクの空気圧だけ入れに行った。

用事がそれしかない時の用事はシンプルで良い。

買い物や準備など、煩雑なことをマルチタスクで考えなくて良いのは嬉しい。

 

部屋の掃除をして、洗濯物の上着についた石鹸カスを濡れティッシュで取った。


こんな田舎で何ができるか考え、周りの人を観察して見た。

これが幸せなんだと幼少期から勝手に信じているものに、自動思考で皆向かっている。

私は途中でそれに懐疑的になり、自分の欲求を見つめた先の未来を見て、今も行動していることを思い出した。

このこだわりを手放せば楽になるかと想像して、いやこれがなければ私の見たいものは見れないと思い直す。



誰かに最終決断を任せたり、ことの成り行きに任せる生き方は、きっと楽なんだろう。

そういう人たちが周りにたくさんいて、それなりに安定した幸福そうな生活をしている。


でも、

誰かに道を敷いてもらうと、自分の責任を果たすことを考えなくなる。そういう人は話していても、一般論が多いからなにも響いてこない。この国で普通に生きていたらそうなりやすい。


主役なのだ、誰もがこの人生で。

多くの人が他人の人生を生きている。

 

これまでの経験や、避けられなかった出来事を通して、

利己的にならず、外の世界に対して自分の持つものを拡げていきたい。

私は、多少共感力があり、人の気持ちを察したり同じように感じる力があるようだ。

これをこの世界に対して生かすなら、まだできそうなことがある。



明日死んでも良いように想定しながらも、今を一生懸命生きている。

常に毎日、今日が最後になるかもしれないと思いながら、それと同時に先のことも考えながら生活している。これは仏教観のおかげで身に付いてきたもので、大いに心を自由にしてくれている。

 

もしすぐに楽になりたいなら、今ある目標や目的、これまで得てきた全てを一度心から外して見ると良い。どうやってやるか?


それには瞑想が役立つ。

実際に物を手放さなくても、何も所有しているものがないことは、内観すれば分かってくる。

そしてこの思考や感情も、身体という所有してない借り物に勝手に浮かんでくるものであって、どこにも自分なんてものはありゃしないことに気づく瞬間が来る。

自分というものを形成する無数の要素が組み合わさって、あたかも自分がそこに存在しているように感じているだけだ。それを知るために瞑想をするのだ。一度分かると、別にヨガのポーズを取らなくてもそれを感じることができるようになる。

 

だから本来的には人は、死も生も、コントロール下にはない。

そういう成り行き的な生き物なのだ。

それを理解した上で、好きに生きれば良い。

あるべき生き方を人に押し付けるような人は、自身が自分で考えてこなかった人だと思う。

あるべき生き方なんてないし、正しいことなんて一つもない。

それを理解すると、人生とは大したものじゃないことに気づくことができる。


リュックを下ろして、身軽に歩き出すことができる。