綺麗事があまりしっくりこなくなった。
綺麗事を言えるほど、単純な感情を普段感じていないからかもしれない。
前から職場で、少し煩わしい人がいた。
10歳近く年下なのに、敬語は使えないし、そもそも人を見下したような態度をしている。
そういう人間は、人によって態度を変える事が多いが、その人も然りだ。
そういう人間にもう力を使う気はない。
必要なタイミングで管理職や誰かに伝えるくらいだろう。
人と向き合うのは本当に力を要する。
私の時間を、そこに使うことはない。
理不尽なことや、耐え難いことにも耐えてきた、とは個人的に思っている。
大切なことは、「心を横に置く」こと。
思考も、その元にある感情も、ロボットのように無にする。
そうした練習をしてきたから、今もすぐにそのスイッチが入れられる。
ロボットになっている自分は傷つかないが、家に帰って人間に戻ると、ふと感情がまとわりついてきたりする。
自分はこのままどうなるんだろうか。と考える。
現状は常にベストな選択をしているとは一般論では言うが、今は決して気楽な快い状態だとは思えない。
過敏性腸症候群とでも言える早朝の胃のしんどさは今もあるし、時々精神安定剤も飲んでいる。
煌びやかな世界とは一線を隔てて、僧侶が托鉢するような寡黙さを持って事に当たっている。
今見えている世界は、そうならざるを得なかった因果があるだけであって、私はあくまで自分の行いを見ていただけだ。
なぜ私が私なのか、という問いにも明確な答えはない。
私というこの個体を、一生懸命に生きるより他ないと思っている。
それが私の出した答えだから、生きることに懸命になることだけは、忘れずに実行している。
タイやミャンマーには、本物と呼ばれる僧侶がいて、彼らに共通しているのは、我を横に置いて淡々と世に貢献している点だ。
自己を切り離し、今を修すること。
淡々とやっていくことで、次に取るべき行動は見えてくるはずだ。
