一旦思考を外さないとまずい状況になりつつあり、これまでの低空飛行も着地寸前か?と思うような時もあったりする。

まぁ別にそれはどうでも良いとして、人は一度体に身に付いた防衛規制を、危険が訪れるたびに使うことが多いそうだ。

思考を外すと大抵楽になる。

風邪をひいて、せっかくの休日を身体の節々に痛みを感じながら過ごしている。毎月風邪を引いている。



子供の頃に描いていた大人の社会と、実際に立っているこの社会は、ずいぶん乖離していた。

子供の頃、社会が子供に対して、社会そのものの情報やイメージを非公開にしていたと思う。

情報は得られず、想像すらできない。

多分労働というものは昔から楽しいものではなかったとは思うが、それを見えないようにしていたのは、どうしてなんだろうか。

 

10代のうちで見えるのは、せいぜい30歳くらいまでの未来で、

20代でも35歳くらいまでしか想像できなかった。

38歳の今、なんとなく50歳くらいまでは想像がつくが、それ以上はよく分からない。

 

先輩の49歳の人は、もう人生に悔いがないとしきりに言いながら、半ば余生のように家族を養っている。

周りかそう見られる年齢と、自分が思う心の年齢にはずいぶん乖離があると思う。

先輩と話すと、同年代と話すのと遜色なく感じるが、本人は「もう50のおじさんだよ」となんとも言えない感覚を持っているようだ。

 

普通は年齢を重ねた分だけ人生経験が増えるので、年功序列というのはほとんどの場合で適切のように思う。

それを武器にハラスメントにする一部の年輩者が問題なだけで、何もなければ沢山の時間を生きている人の方が、人生のことをよく知っていると思う。

年齢の価値というものの認識が、国民全体的に歪んでいると思っている。

私は福祉職とかばかりで働いてきたから、心の成熟度が仕事の質を左右する職種があることを知っている。

 

企業や、今や学校や公的機関でも、市場価値の筆頭に挙げられるのは「効率」である気がする。

全体を俯瞰することはできないが、何事も時短でコスパ良く仕上げていくことに価値が置かれていると思う。

AIができることを人間が求めているのなら、人間はいずれこの世にいらない存在になるんだろうか。



普段は私もそんな細々としたことを考えなくても、ふとした瞬間や出来事に、「ここはどこなんだろう。」と忘却してない記憶喪失みたいな不思議な気持ちになったりする。歯車であることが下らない、とか、一体何やってるんだ、とかの悲嘆でもなく、そもそもこの存在は何だろう、という自我の中心への問いかもしれない。自分が誰か時々分からなくなるので、人と話すか、話し相手がいない時は木々があるところか水があるところに行く。人々の中にいると見失っていく何かがある気がするのは、気のせいだろうか。

 

この世界は、自分の感覚を通してしか知り得ない。

もう自分のことは、何か大きな存在(自然や、摂理、あるいは神とも言えるかもしれない。)に委ねている。抗うことに非常に疲れてしまったから、自己を手放すしか方法がなくなった。

多少の努力はするが、頑張っても頑張らなくても、何かしてもしなくても、感情が浮いたり沈んだりするだけなので、それもどうでも良い。


私の役目は、私がちゃんと生きていることを見届けることだと思っています。坐禅などで得たのはそういう答えでした。