昨日キャンセルしたバーベキューに、あぁやっぱ行けば良かったのかなぁと、またいつもの「やらなかった小さな後悔」が出てきて、子供みたいにグズグズする自分がいます。こんな優柔不断な自分とももう38年も付き合っているのか。自分でいるのがしょっちゅう疲れます。

 

私がよくする問いを同年代の人たちはあまりしないので、自分らしくいようとすると同年代の集団から離れていく自分がいます。それだと何にもならないから、無理に人付き合いをしようとしてストレスを溜めて、また距離をとって、、そんなことをずっと繰り返しています。

 

私は割と目の前の人の心が読み取れる方なので、対峙している相手としばらく話しているとその人の求めているものが伝わってきます。勝手に相手の心が侵入してくる感じです。

昔からそういう性質があって、こういう性質を使っていろんな人と話してみたら世界も広がるんじゃないかと思い、いろんな人と頑張って話してみました。

 

私はそのプロセスを経て、若干ペシミズムやニヒリズム寄りの人間観を作っていったのかもしれません。

飾りのような外見や言葉の内側に、人は強い欲と執着を合わせ持っていて、それが苦しみの元になっているのは明らかなのに、多くの人はその沼みたいなところに自ら進んで足を伸ばしているように見えました。「人間って馬鹿じゃないの?」という思いを持ちつつ、私自身もそのシステムの中にいるジレンマがあり、「否定することで答えは出せないのかもしれん」という方向に至りました。

 

ただ、私自身も、「どうやったら苦しみを減らせるか」の問題には答えが出せていても、

「どうやったら人間的な幸せを得られるか」といった欲に基づく世界でのやり方を、未だ見出せずにいます。

苦しみを減らすことは、心の波風を穏やかにし、安らぎをもたらしますが、

それは世間の流れと一線を画していくもので、進めば進むほど個の道に向かって行きます。

多数派が使わない手段を使って人生を生きている自分が、時に滑稽に思え、そして小さな優越や虚しさを感じます。

優越を感じるところには必ず劣等が潜んでいるので、個の道に向かうその原動力の中に、「劣等」というパーツが潜んでいるのかもしれません。

 

人にどう見えるか、ばかり考えて生きてきたのだということに気づき、

人に見せたくない自分は、ずっと隠してきたのかもしれません。

 

誰もが生活に支障がない程度に隠し事をしていると思いますが、

隠し事のレベルが度を超したり、自己矛盾の程度がある値を超えると、そこで生活に支障が出るようになるのだと思います。

 

もう欲しいものはないのに、世間と合わせるために欲しいフリをする。

そこに虚しさを感じずにはいられませんが、まぁ人間として生きるってのはこんなもんなんでしょう。

「もう十分にある」ということだけは忘れずに行きたいと思っています。