安く見られがちなのに、次第に価値が逆転していく不思議なもの。

 

時間がどれだけ残っているのか分からないのに、頭の中では大きな砂時計があると思っている私がいる。

実際は誰も分からない。

 

全ての人に平等なものは時間というが、この時間さえも平等に与えられている訳ではないじゃないか。

 

若い頃は無宗教でも耐えられるが、いかんせん身体が言うことを聞かなくなってくると、苦しい側面が増えてくる。

そんなやたらめったら苦に結びつけなくてもいいじゃないか、と仏教を作った人の言行録を読んで思っていたが、今になって分かることがある。

ひたすら繰り返しだし、何もドラマじゃない。

キラキラしているのは世の中ではSNSばっかりで、この眼前に見える景色はキラキラもしていない。

SNSから少し離れて、本当に自分の眼に留まるものを探した方が良いような気がしてきた。

誰かに造られた輝きを見て一喜一憂している限り、普遍的な自分の探しているものは一生見つからない気がしている。

 

 

 

 

これまでの私的研究から、おそらく答えのようなものは人間の集団が作り出すところにはないのではないかという結論に至っている。どれだけ敬意を持てると思った人間にも、その人だけが持つ業や歴史があって、そういうものに触れていると人というのは美しいものでは決してないという考えを持つようになった。過剰に人間に期待すると、良いことがない。

 

感情が不安定になるのは日々の疲れもそうだが、一度決めたことや、もう無理だとなったこと、それらが時間の経過の中で予想以上に形を変えず、自分の歩いていると思っていた道がどんどん先細っていっているのが自分でも分かるからだ。

どこに向かっているかも分からない、運命とか名付けた自分の中だけの盲信に、首を絞められているのかもしれない。

 

歳をとるごとに仏教が身に染みてくるのは、人生の前提には苦があるという釈尊の洞察が、同じような目線で分かってきたからかもしれない。手放せば手放すほど楽になる。そして社会というふにゃふにゃした場所から離れていく。手放せば手放すほど、楽しさの濃さが薄く淡く変化していく。

 

 

 

 

矛盾なく生きることは不可能だが、多少ASD的な性質を持つ私は、矛盾が辛い。

自分を騙すことだけがどうしてもできないので、今後もいくら損をしても、矛盾を解消するための行動をとり続けるだろう。これに命をかけてしまっているのは、性質だという説明しかできない。業とも言える。

 

診断がつかないレベルの障害が私にはあると、思っている。現代はそういったグレーな障害程度に対しての周囲の理解はまだ薄いから、自分で自分のことを助けていく他ないだろう。社会が追いついてない。

 

この先も自分で何とかするしかないが、時には空を眺めて両手を静かに合わせるようなそんな時間が欲しいと思った。それだけが欲しいと思った。去年も海ばかり行っていた。

それは明日にもできるから、お金のかからない方法で、広くて何もない場所を探しに行こう。