今日は散文的に。

 

鳥を見に行くが、雨天のため鳥も少なく、見つからない。

冬の林道を歩く自分に、中世ヨーロッパの山道を重ねて、少し浮かれた気分になった。

メジロやカケスが時々横切っていく。鳥たちは気ままに生きているように見えるが、彼らも一つの目的のために生きている。

 

海には釣り人がまばらにいた。

海に行くまでの道中、後ろの軽自動車に軽く煽られる。

ハザードをつけ先に行かせる。

田舎の方が危険な運転を平然としている人間が多い。

彼らの苛立ちは、発展性と余白のない生活を象徴しているようで、虚しさを覚えた。

 

人の少ない田舎ほど、他者に対して警戒心を持っている。

往々にして、強い何かを放っている人は、その逆の弱さを併せ持っている。

攻撃的な人が大抵、劣等感を持ち合わせているように、

強い慈悲心を持つ人にも、その逆の何かがある。

 

 

よく考えて自分の生き方をしている人は、道という言葉を安易に使わない。

道というのは、誰かが作った轍をなぞる意味合いがある。

安全に進めることを先人が保証しているから道なのであって、本当に自分の思うように生きるとしたら危険が伴う。

竹藪や草むらをかき分けて、原生林の山道を進んでいくのと同じだ。

ここで必要なのは、コンパスと同伴者だ。

コンパス(指針)は最初から掲げてないとすぐにどこかに紛失する。

歩いていく先に出会う人たちは、良くも悪くも同伴者であって、ある地点まで関わるべき人たちなのである。

 

マッチングアプリで連絡を取った年上の女性と来週末に会うことになった。

時間をかけてコミュニケーションをとっても、一度会って何もなかったように関係性が終わる可能性の方が、どちらかというと高い。

誰に会うかよりも、知らない誰かに会おうとすることで心が変化していくプロセスを大切にする。

 

何かをしなければ、何も起きない。

大人になればお膳立てしてくれる誰かはもういないのだから、私が変わらなければこの景色も変わらないのだと言い聞かせる。

 

 

 

 

あまり生に執着がなくなったのは、成長した証だと思っている。

無理に明るさを繕うのも、過度に苦しむのも自分らしくない。

仏教は私を多少孤独にしたが、それ以上に世界を冷静に見極めるヒントをくれた。

この中途半端な心境を、浅くため息を吐きながら生きるのが、今の私の人生なのだ。

以前よりはましになったのかもしれないが、人生というのは少し可能性が出てくるほうが辛いのかもしれない。

諦めた方が楽になれるのか、進んだ方が楽になれるのか。

 

まず自分に愛情を示していかねば、他者に愛情を示すことは難しい。

何事も全て、自分というもののあり方が鏡のように世界を映し出していることに、気づく必要がある。