昨日は、実家から少し遠い、大きい寺院を見に行った。
10年前、僧堂で修行していた時にやっていたのと同じように、黒い袈裟をつけた雲水たちが、晩課という毎日行う法事をやっていた。
私より年配の参拝客の方々が、本堂入り口のスペースで、合掌しながら法事の様子を見ていた。
大悲心陀羅尼という曹洞宗特有のお経(陀羅尼というのは元々サンスクリット語のお経を、中国で漢字に音写したお経)を読んでいた。私もそのお経は暗記しているので、頭の中でなんとなく反芻しながら眺めていた。
修行の最初の頃は、こういった法事の所作を覚えるのに疑問を持たずやっていた。修行も半年を越えてくると、なぜこういう儀式が重要とされているのか分からなくなった。
そういう過去を思い出した。
修行を終えた仲間達は、皆自分の寺に戻って、正式な僧侶になる手続きを終えて、副住職なり住職になっていった。
私も修行前は、そういうつもりだったが、自分の僧職への意欲が低下していたことと、実家の寺に自分が大して必要でないことが分かって、呆然としてしまったんだっけ。
誰かに必要とされれば、そういう儀式もできたのだけれど、「自分の家族に必要とされたかった」という思いもあって、結局実家を離れてしまった。
ここのところ両親と話して、私が僧侶をやって生計を立てるとしたら、どこかの寺の婿になる方法しかないのだと分かった。
やっぱり私は、宙に浮いた存在のようだ。
本堂で読経している雲水たちと過去の自分を重ね合わせ、私はこれからどうしようかとまた考えた。
日本で僧侶になる為に必要なのは、儀式での立ち回りや所作の知識である。檀家さんの家に行って挙げるお経はそこまで難しくないが、僧侶が集まって挙げるお経や儀式は、見様見真似ではとてもできない。
私がもし仮にまた、僧侶になりたいと思うなら、10年前に歩んだ道をもう一度歩く必要があるのを感じた。
今日は、自分が改めてそれをできるか・やりたいかを判断するために見に行ったが、やりたい気持ちもあるし、修行はもうやりたくないよ、という気持ちもあった。
タイでは、在家の人が普通に数ヶ月出家して、社会に戻れる仕組みがあるらしい。
日本のように、寺の息子ばかりが僧侶になるより、そういう仕組みの方がずっと良いな。宗教は皆の為にあるのだから。
親と話すことができて、私はとりあえず今だけは安定はしているが、
実家は兄夫婦と子供が住んでおり、私は肩身が少し狭い。
兄弟は皆家族を持って、自分だけ取り残されているように思えて落ち込むことが多い。
姪っ子や甥っ子と楽しく遊んでいても、兄夫婦や妹と会うと「俺は何やってんだろう」と思ったりする。
昔からそうだったなぁと思う。
仮に私が長男だったらどうだっただろうか。今の兄のような沢山の重責を担えるだろうか。きっとそれも難しいのかもしれない。

