台風が近づいている海は、荒々しく音を立てて波が押し寄せていました。

見ている私の少し先に、荒れた海を波打ち際でぼんやり眺めている女性がいました。

こんな薄暗い景色にも人が集まるのだと、何となく小さく感動するものがありました。

 

不安定な天気が逆に、自分の心を慰めてくれるような気がしていました。

窓の外でする雨音が、外の世界からやさしく隔てて、守ってくれているような気もしました。

 

色々な人の言葉を聞いて、助言を聞いて、まとまらなくなって、少し自分の声だけが聞こえるように環境を変えました。

そうすると、一度は何もなくなったように見えた自分の心の景色に、相反するように自分にとって手応えのあるものがほんの僅かですが、浮かび上がってきました。


 (写真はどれも別日に撮ったものです)

あれをしようと思えばこっちが立たず、一度も二度も、何度もこれからの計画を作り変えては小さく動いて自分の気持ちを確かめていました。

確かめていく先に、また壁が出てきて、そんなことを数度繰り返しました。にっちもさっちも行かなくなってカウンセラーに相談しました。しかしどこにも自分の中心に近い答えはなかったような感触がありました。

 

今あるものの中に自分に合うものを探し出そうと躍起になっては落ち込んでを繰り返し、少しずつ虚しくなってきました。

選択肢を出しても出しても、一向に自分に合う方向性が見つからず、このやり方では、なにか朗報がもたらされるのを受け身で待つことしかできないのだと気づきました。

少し絶望した気持ちで、昔聴いていた音楽を聴いていました。部屋にある電子ピアノを、ヘッドフォンをつけ気休め程度に弾いたりもしました。



何かを諦める、というのは、諦めるだけの材料が揃った時に無理なくできるのであって、心残りがある状態では次に進めないのだと今日思いました。

知人からの、「結局どうなりたいのですか?」という問いに答えるだけの材料がないことに気づきました。

そういう場合の行動指針は、人から言われたことでは組み立てられません。だから自分の心の声を聞くことにしました。

 

他者の声が、自分にとって毒になることがあります。なぜ自分自身の声が聞こえなくなったかというと、正しい言葉を使ってこなかったからかもしれません。

 

出口が見えない時ほど、他人を羨み、自己を卑下し、世界を脅威に感じます。

そういう時私は、情報を遮断し、友人からもらった暖かい言葉でさえ外に置いて、自分の僅かな声をほんの一粒でも捻り出そうとします。

最終的に自分の行動の責任を負うのは自分なので、他者の言葉のままに実行すると、後に責任転嫁できてしまいます。

自分の人生の責任は自分で負いたいのです。そういう決め方は時間がかかりますし、外の世界の時間軸と合わないので、ずれます。でもそれでいい。

世の中のことは、あまりに承認欲求に左右されすぎていて本質が見えてきません。だからSNSなども殆ど辞めました。


私にとっての変化はいつも痛みを伴います。

でも、それだけ変わりたいと思っている私を、私が大切にしてあげなきゃ、誰が自分を守ってくれるのでしょうか。私は友人知人から何と言われても自分の心の声を信じようと思いました。