この国で生まれて、あるところまでは意識しなかったことなのだけども、今になって強く感じることがあります。


日本人が宗教観が薄いのは、日本人の倫理観の薄さによく表れているような気がします。して良いことと悪いことの区別は本来宗教が担ってきたものです。それを家族をベースとして養っていくことに教育があり、人はそれを土台として育っていくことで、ある価値基準を持っていくものと思います。


私自身、寺に生まれながら仏教のことなど少しも興味なく無宗教で生きてきた時間が長かったからこそ、今そういう観点を内側に持ってみて、その当時との景色の違いに気づきます。

無宗教は、偏りがない・盲信がないという意味では現代のリベラルな思考に合うものでしょうから、そういう寄りかからない生き方をしたい人から宗教は敬遠されるものかもしれません。

私もその偏りが昔は嫌でした。



しかし、歳を取り身体の機能が低下していく中で、思い通りにならない自分の身体に気づき始めました。

鍛えればなんとかなる、努力すれば乗り越えられる、という考えも歳をとると変わっていくようです。「自分にできることは限られている」と知ることは諦めに近く、そういう感覚を初めて持ってみて、あぁ人生とは凄まじく儚いものなのだな、と肌で分かってきている今日この頃です。


私がこれまでの大した事ない人生の中で、自分から学ぼうと思って学んだのは、仏教と楽器くらいでした。学校の勉強は、これが何の役に立つのか分からないのに勉強する理由が分からず、高校以降は勉強しませんでした。

哲学書も入門書は幾つか読みましたが、哲学とは心に余裕のある人間がするものな気がしてあまり馴染まず、余裕のない人間に必要なものが何か考えたら、宗教にたどり着きました。


イスラム教やキリスト教、ユダヤ教などは同じ世界観を共有しながらそれぞれ違う在り方をしていますが、共通する面として、一神教という「信じる側面が強く出ている宗教」だと私は思っています。


仏教は、信じる要素が少ない為に、規模が大きくならなかったのかもしれません。ブッダの厭世的とも取れる教えに共感するには、たくさんの「思い通りにならないこと」に出会ってこないと難しい気もします。

ブッダはとても頭の良い人だったようで、自分の身体の変化を観察し、世界の在り方に気づいたようです。生きることは自分のコントロール下にないものだと瞑想で気づき、その上でどうしたら苦しさを減らせるかを突き詰めて考え実践してきた人です。そういう人間的な一面はあまり知られていませんが。



「放てば手にみてり」


という言葉があります。

苦しいならばその手に掴んでるものを手放してみたら?

ということです。


それが物なのか、人なのか、考え方なのか、過去なのか、それとも未来なのか、、


いずれにせよ、最初は持ってなかったものを今持って手に掴んでるだけなのなら、手放しても最初の状態に近くなるだけです。


何も持ってなかった頃のほうが気楽だったな、とよく思います。


明日も、自分のエゴを手放して生きていきたい、と切に思います。