神のご意志を聞いてみる。

 

以前勤めていた職場の先輩とよくラインしているが、「迷ったときは神に委ねる」と言っていた。(その先輩は以前、適応障害のようになって休職していたことがある。職場ではツンケンしている少し怖い感じの人なのだが、私には今でもとても優しくしてくれる。)


神は明確な返答はしないが、自分自身がその時だけでも委ねてみれば、何かしらの示唆を与えてくれることがあるようだ。

その感覚は分かる。よく分かる。

 

最近は、神の意志を聞くために、現実の行動とは別に、宙にもう一人の人格を漂わせている。

すると時々、何か引っ掛かるものが出てくる。今日もそうだった。

イヤホンでずっと音楽を聞いていて、ふとイヤホンを外すと、現実が立てる生音が、肌身にそのまま打ち付けるように聞こえてくることがある。

抽象的に言えばそんな感じ。



13年前にインドに行ったのは、観光目的の裏に、宗教の生まれた背景を感じたいという動機があった。

結果的にそれを感じ取ることもできた。作物もちゃんと採れなそうな荒野で、社会保障もあるのかないのかわからないこんな環境で、人は信仰心を土台に生きていた。今もその時の感覚ははっきりと思い出せる。

3大宗教が生まれたのは2000年以上前にはなるが、それらが生まれたのはイスラエルやインドなど、環境や風土的に恵まれているとは言えない場所である。インドは厳しいカースト制度が当時からあり、人の死というものは現代よりもっと身近なものだった。難しい状況になる程、人は自らの力の限界を知り、それ以外のものに身を委ねたくなるものなのだろう。

 

正解は何かわからないが、私もいつか年老いて死ぬ身であることははっきりしていて、これだけエビデンスベースドの社会で色々なことが解明されてきているのに、自分が自分であるという理由は一向に知り得ない。

おそらく死ぬまで何もわからないままなんだろう。一番大切なことは。

 

運という簡単な言葉で片付けるのが辛い。「私たちは業の中に生まれ生きている」という表現の方が、現実の肌感覚を的確に表していると思う。あくまで私の場合だが。

 

欲に惑わされて生きるのが人間の運命であっても、この始まりは私以外の誰かが作ったものだ。

それは母親と父親の性行為の結果というより、もっと違う次元での意図があると考えるのは、不自然な論理ではないと思う。

私は、自分が生まれた意味や、限られた時間をどのように生きていけば良いのか、この半年程全く見えなかった。

 

けれど、目の前のことをやっていれば、何か自分の琴線に触れるものがある。

そこから感じ取るものは、おそらく何よりも正確な実感であると私は思う。

今日少しだけそれが見えた気がしたので、勢い余ってこれを書いています。

それは大袈裟に言えば神の意志と言って差し支えないような、小さな衝撃を伴うものだった。だからこのテーマで書いている。



疲れた表情のOL、サラリーマン。これから風俗店に出勤するだろう派手な格好の奇抜な女性。

タバコの匂いが身体中からする還暦過ぎのおじさん。車内を動き回って時に声を上げる自閉症の男性。

口臭のひどい知的障害の男性。自分の世界に入ってゲームに没頭する高校生。全身ピンクコスプレをして皆の目を引く若い女性。

 

混沌の中にあると、人は自分で精一杯になって、優しさを忘れてしまうものかもしれない。

けれど混沌の中でしか見えてこない真実のようなものも確実にあるように思う。

混沌の中にあると、人は何度でもやり直せるのだと感じ取ることができたりする。前向きなのは悪いことじゃないから。


今日もお疲れ様でした。

明日も生き抜きましょう。