綺麗な言葉もカッコいい言葉も、なんだか現実を表現するのに適してない気がして、それでも言葉を使って書くしか方法がないのが、この世で生きる制限なんだなと思う。
性欲が減ってきたことで、見栄を張ったり、変にスイッチをいれることも少なくなってきた。性欲があることで虚栄心というものが成り立っているのかな。性欲が減ってきたせいか最近はフラットに見えるようになってきた。
半年くらい前にズーンと落ちていた時に顔にデキモノができた。少し黒くなって、今も残っている。昔のように勝手に消えてなくなることもないのかな。
生きているというのがどういうことか、毎日乗る電車や、歩く商店街の喧騒の下で、着地点などなくグルグル回り続け、考え続ける。
私なりの色眼鏡で見てきた答えはもうある。歩いてきて良かったなと思う。10年前とは違う景色を見ている。
好き好んで混沌とした環境を選んできた訳ではない。どれも向こうから勝手にやってきた。とにかく目の前に表れてくるものに対応して、行動して、その結果で次を判断するしか方法がなかったし、それが地道だけど一番正確な検証方法だと今でも思う。
近道も寄り道もせず、ただ愚直に真っすぐ歩いて10年もかかるのだから、寄り道してたら私の場合は一生終えられないかもしれない。それはあくまで私の場合で、器用に生きてる人も沢山見てきた。彼らの器用さに憧れはしなかったけれど。
目指すものに早くたどり着くことは大切じゃないと思う。
そして、たどり着くこと自体も大切ではないと思うようになった。
人は本当にいつ死ぬか分からない存在だから。
「今を生きているかどうか」が大切で、目標や、もしそれがないとしても何らかの希望、そして更に希望すらなくても小さな光があることが、今を生きる要素になるようだ。
その時にソレがあれば、その「今」は成立している。未来というのは約束されたものではないから。
希望、または光があること。
それがないと人は苦しくなってしまう。
そして、どんな時でも、光は見いだせるのだと私は思っている。
でもそれはもしかしたら空虚な言葉かもしれないが、私は光に助けられていた。
私自身は、どうしようもない時にやる、生き返る方法を幾つか編み出してきた。その幾つかはとても人にはオススメできないむちゃくちゃな方法だし、普通にR20指定になりそうなものだ。
大きなものに取り憑かれていたあの頃より、
道端の雑草や、夜道の街頭、道行くお年寄りや子どもの表情に目が行くようになった。
私の今の光は、音楽だと思う。
沢山光があった頃よりは少なくなったのだけれど、光の数が減るほどに、一つ一つの光量は強くなったように感じている。
いや。
今考えていて、私にとって一番の光は音楽じゃなく、周りの理解ある人の存在だと改める。
最近は手書きの日記のほうがよく書いてるけど、ここに書くのも抵抗が少ない。気持ちを素直に言える何かが在るということが、私にとっての光だと思う。
人でも人じゃなくても良いが、私の場合は人の方が良さそうだ。

