「今日の日記」


多くの人達がそこまで大切だと考えないことや、見ようとはしない部分に興味を持って生きています。


人として生まれた、というのは、動物や昆虫などの別の生物として生まれなかったということです。そして、この時代に生まれたというのは、戦時中や江戸時代、戦国時代、石器時代などの厳しい時代に生まれなかったということです。


当たり前に享受しているこの「今」は、いくつもの「そうではなかった」ことの上で成り立っています。


当たり前のことに気づくには、ある程度年齢や経験を重ね、俯瞰できるような立ち位置に立つ必要があると思います。山を登っている最中は目の前の一歩か、その数歩先くらいまでの景色しか確認できませんが、ある程度の高度に達してやっと、標高の低い場所(これまでの生活や沢山の積み重ね)をひとつの景色としてまとめて見れるようになります。そうなってから、当たり前のことが稀有な在り方をしているように見れるようになるのだと私は思います。


今の時代が生きやすい時代かそうでないかは、もう少し時間が経たないと分からないでしょう。戦時中を生きた両祖父母から見たら現代は平和に見えるでしょうが、この時代しか知らない私は、この景色の制限の中で相対的に見ていくためにもう少し時間を要すると思います。



今日は仕事を休んで、家で殆ど寝ていました。

夕方に、人気のない海でひとりぼんやり時間を過ごしました。


なぜ生きているのかは、死ぬ直前に分かる。

と大学のゼミの先輩が昔言っていましたが、少しだけ、綺麗事のようにも思います。


ひとりで海を眺めていると、その景色に取り込まれて自分が海の一部になってしまったような錯覚に陥ることが時々あります。


人といる時は、常に相手の表情を見ながら相手の求めるものを言ったり、そういう無意識の駆け引きばかりしています。仲の良い人とはその割合は減りますが、人間である以上調子の良し悪しが日によって変わるので、いくら仲良くても疲れるものは疲れます。


すごく長い時間を、自分という枠を通して、自分の中から出てきたものを感じながら生きています。寝ている時間以外は、自分のコントロール下にある自分をどうにかコントロールして生活しています。


今日海を眺めていて、「私はなにがほしいんだろうか」と、自問しました。「家庭が欲しい」という言葉を口に出してみて、違和感がありました。「子ども」「家族」「彼女」という言葉も、違和感がありました。


しばらく海を眺めながら考えていて、「居場所」という言葉が出た時に、腑に落ちた気がしました。


10代の頃、親や祖父母に守られていた、あの頃に感じていた居場所。

私にとっての居場所とは、ある特定の人間関係というより、「ここにいて良い。あなたはここにいて良いんだよ。」という許可や赦しのようなものに近いものだと思いました。


自分は居場所を探していたんだな、と少し赦すことができました。

テトリスで同じ色のブロックが揃って消えるときのように、変なモヤモヤが少し消えていった気がします。


今日はフラットな気持ちで物事を見ることができました。

外は雨が降っていて、風も強いですが、逆向するように自分の内側が静かになっていくことを愉しんでいました。