恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性欲は恋愛と呼ぶに値しない。
芥川龍之介「或阿呆の一生・侏儒の言葉」より
私にとっての詩的表現は何だろうって考えてみた。別に詩人と恋したいわけじゃないし、ロマンチストとばかり恋してきたわけでもない。
婚外恋愛+マッチングアプリの組み合わせは、即日でも恋が手に入るくらいお手軽。だからきっと大事なのは、恋の始まりじゃなくて、恋の終わり。恋を手放すときに浮かぶ言葉が、ありきたりな定型文になってしまうのは、ちょっと落ち込む。
ただ性欲を満たしたいなら、マッチングアプリに溢れている自称イケメンを捕まえて、お手並み拝見すればいいんだろうけど、女としての残り時間が頭の隅をチラチラかすめると、良い男と良い恋がしたいと強く思う。
40才の節目には、あらゆる同窓会があった。若い頃とは違って、それぞれの人生が全く違うものになっていることを感じた。どういう生き方をしてきたか、どんな苦労をしてそれを乗り越えてきたか、普段からの思考の積み重ねが、人の顔つきを変えていく。
私にとっての詩的表現は、私よりも人生を深く知る男性が発する言葉でなければあり得ない。やっぱり言葉を正しく選べる人がいいな。あとは、言葉のセンスがあって、言葉の相性が良くて、、
あ、そうだ!こんなこと言ってるけど、来週はボクサーくんと初デート。
今のところ、メッセージのやりとりは至って普通。詩的表現はゼロ。私を食事に向かわせるのは、お顔が少々ハンサムで、ボクシング経験者という経歴があること。以上2点です。
まあ、男と女なんて分からないから。芥川先生のお言葉なんてどうでもいいわって、コロっと恋しちゃう可能性もなきにしもあらず。