僕の講演会には、全国から何百人もの偉い人が集まるんだ。
複数の会社を経営し、研究者としても活躍している天才くんは、誇らしげにそんなことを言う。
そんな彼からかかってきた夜の電話で、私たちは恋のスパイスとして、過去の恋愛話を持ち込むことが多い。
不倫関係だった同じ研究室の女性には、自宅に乗り込まれたよ。インターホンで彼女の姿を見たときは焦って、すぐに家を飛び出して迷惑だって伝えて。そうしたら土下座する勢いでごめんって泣き崩れるから、余計に目立つし、ほとほと困って。
乗り込まれるなんて、絶対にあなたが無責任なことを言ってるんだよ。
言ってないよ。心当たりがあるとしたら、同じ空間にいるから、やっぱりいろんな話をするじゃん。例えばさ…
あなたたちみたいな高学歴の人のことだもん、どうせ、厳しく歪んだ育てられ方をした苦労話でも共有したんでしょ。よくある話だから、わざわざ聞かなくていいや。
私自身、婚外相手たちと経験のある自己開示。心の奥底に触れるような深い深い話。
それだけじゃなくて、経歴のこととかさぁ…
何それ。
まぁ、でも言わない。
気になるじゃん!それこそ教えてよ。
通話しながら、彼女のプロフィールの断片を検索欄に打ち込んでみる。ビンゴ。社会的地位を確立している彼女の秘密を知りたくなったけれど、天才くんは口を割らなかった。
たぶん、セックスが良くてハマってたんじゃない?彼女、毎回イキまくってたから。
通じ合えたと思って心を許しても、結局、そういう風に言われちゃうのね。聞きたい話は聞けなくて、どうでも良い話を聞かされて、気持ちわる。。
整ったウェブページ。彼女の清楚な笑顔の下には、ピカピカの経歴が並んでいる。文章からは彼女の苦しみなんて何ひとつ読み取れない。
私が天才くんの元カノに思いを馳せている間に、話題は移っていく。
外部株主もうるさいし、出資元には海外ファンドがついてる。やつらは金の亡者だから、僕がスキャンダルになったら、違約金を払わせてくるよ。億単位の借金を背負うことになったら、破滅だよ。
それなら私も破滅中なんだけど、と言いかけてやめた。天才くんは、いわばクリーンな表舞台の人間なのだ。
れもんちゃんが、もし旦那さんにバレたときには、家庭内で解決して、僕のところに転がり込んできてくれるのが一番いいんだよ。
私に、口を割るなって言うのね。
僕が無事なら、れもんちゃんと一緒に住んで、生活の面倒を見られるでしょ。でもそれは、あくまでも、こっそりできることなんだ。
やっぱり囲われ生活なんてしたくない。私はまた別のお金持ちと再婚するから、いいや。
天才くんの声がひきつる。
僕はもう妻のことが好きじゃないけど、今この歳になって、彼女を捨てられるかって考えたら…。
それでいいんだって。簡単に奥さんを捨てる人は、どうせ私のことも捨てるんだから。
誤解しないで欲しいのは、僕は妻よりれもんちゃんが好きなんだよ。
たかだか数か月の付き合いで、そういうの要らないよ。私は、悪いことをしていない奥さんが被害を被るのは間違ってると思ってる。だけど、私は自分が大事だから。あなたの愛情だけを頼りに、奥さんよりも社会的立場が弱い人間として生きていく気もないの。
天才くんの機嫌が悪くなる。結局この人は、彼への愛を装った感情を彼のテリトリーで爆発させるような、分かりやすいメンヘラとお似合いなのだ。
いいよ、他の男のところに行けよ。何だかんだで、うちの妻は結婚後には不倫したりしてないしね。
不倫相手に言ってはいけない言葉ワースト3に入りそうだ。不倫相手と上手く行かなくなった途端に、配偶者を拠り所にプライドを回復。よくある現象。
ほらね、あなたは結局、心の底では、不倫するような女より、不倫しない奥さんを評価してる。ただ、セックスのために私に小細工的なことを言ってるだけだよ。
それから、私たちはいくつかの言葉を刺し合った。抱えるジレンマを相手のせいにしようとする私たちは、似たもの同士だ。
元カレの話になったとき、思わせぶりなことを言ってやった。
他の人のことはいくらでも話せるけど、3年間付き合った彼のことは、まだ言いたくない。
未練ってこと?まだ連絡を取ってるの?
誕生日おめでとうっていう連絡には返信したなぁ。
れもんちゃんって、僕を傷つけるようなことを平気で言うよね。隠すのが愛情って知ってる?僕は妻にも自分から不倫を告白して傷つけるようなことは、したことない。不倫相手がメンヘラになるからバレるだけで、僕自身はちゃんと隠し通してる。
私は笑った。
なんで隠すことが愛情なの?奥さんに隠してほしいって言われた?それとも、あなたは勝手に、奥さんには真実を知る権利がないって思ってるの?
隠し通すのが愛情、という倫理のまやかし。騙し通される側の権利を、騙す側が都合よく免罪符にすり替えてはいけない。
私は当然、夫に自分の不倫を隠すし、婚外相手には他に相手がいることも黙っている。でも、それが彼らを傷つけないためかと聞かれれば、答えはノーだ。
100%、自分のために隠してるのよ。本当に傷つけたくないなら、不倫なんてしないでしょ。不倫で裏切って、知る権利を奪って、人生をどう生きるかという選択肢まで奪って、それが優しさなんて傲慢ね。
知ったことによって、選びたくない選択をすることになる人もいる。皆が、れもんちゃんみたいに強いわけじゃない。
私と不倫するなら、自分の卑怯さくらい引き受けられる人でいてよ!
話していられなくて、電話を切った。本音を言うと涙が出そうになる。愛人らしく楽しく可愛く話ができない私は、最近ちょっとおかしい。
さんざん好き勝手にしておいて、この感情は何なのだろう。意識が夢の中に落ちる直前、やっと気がついた。
過去の傷を明かし合う。正しい愛を議論する。深い話をして、深い愛を育んでいる気になっても、私たちがしているのは自己愛のなすりつけ合いだ。
だから、これは悲しみじゃない。
全てを自分の思い通りにしても、自分は正しいと思っていたい。深い話をしたら、深い愛が生まれると信じたい。その思い込みが崩れたことを認めたくなくて、わずかなほころびが許せなくて、ただ、駄々をこねている涙。

