先生が午後から在宅ワークの日に会う約束をしていた。




久しぶりのランチで嬉しい!




運ばれてきた料理を前に、私は切り出した。




部屋に行く前にパソコンが見たいかも。



どうして?



ちょっと、事情があって…。




本当の理由は言えない。だけど、ぼんやりとは伝えた。思いがけない縁で、新しい扉が開きかけていること。妻でも母でもない、私という個人が外の世界へ踏み出そうとしていること。先生は深く突っ込むことなく、静かに耳を傾けてくれた。




じゃあ、れもんちゃんの門出を祝して、パソコンを買ってあげようか。




少しだけ迷って、首を振った。




ううん。この間バッグを買ってもらったし、旅行も連れて行ってもらったばかりだから。



バッグほど値段のするものじゃないからいいよ。



本当のことを言うと、自分で頑張ろうって思いたいから、これは自分で買うね。だけど、どれを買ったらいいのか…、一緒に選んでくれる?




家電量販店で、容量や性能を見ながら、先生が海外製のノートパソコンをいくつか選んでくれた。




ワードが打てればいいから、安いのにして!




自分のお金のときは、ケチになる。




じゃあ、持ち運びケースだけ、お祝いに買ってあげよう。




先生のマンションまではタクシーを捕まえた。部屋に入って、買ってきたばかりの箱を開封する。ダンボールや緩衝材をダストスペースへ捨てに行ってくれる先生を見ながら、私はこの人のことが本当に好きだなと思う。




高層階の大きな窓際には、L字型のデスクと立派な回転椅子がある。




れもんちゃんも隣にきていいよ。



大丈夫、私はソファで打つね!




約20年ぶりに触るキーボード。いつもはスマホの音声入力に頼っていたのに、指を滑らせた瞬間、胸の奥に溜まっていた言葉がすらすらと溢れ出していく。




れもんちゃんも、そんな真剣な顔をするんだね。




ふと気づくと、先生がコーヒーを入れてくれていた。




ごめんね、仕事中なのに。居座ってる私が淹れれば良かった。



いいよ。さっきから見るたびに息を止めてるから、深呼吸したほうがいいよ。デスク、使いな。




先生に甘やかされている。促されるままデスクに腰を下ろし、目の前に広がる景色を見つめた。眼下には見渡す限りのビル群。その隙間を無数の人々が歩いている。




何年もの間、妻として母として、生きてきた。色々なことに悩み、迷い、傷ついてきたけれど、仕事をしていない自分が世の中に何かを残せたかを考えると、手元には何もないような気がしていた。




先生は、挫折したことある?どうしてスポーツの道に進むのをやめて、勉強にしたの?




かなり踏み込んだ失礼な質問だったかもしれない。けれど、先生は書類から目を上げて、ゆっくりと語り始めてくれた。かつての大きな挫折、諦めざるを得なかった夢、その陰で誰にも見せずに飲み込んできた孤独。完璧で、頼もしくて、いつも私を包み込んでくれる先生が見せた弱さに愛おしさが込み上げた。




ベッドへ行き、先生の頭を胸に抱きしめた。髪に触れ、体温を感じる。お互いが知らない、人知れず泣いた夜。誰だって優しくされたいし、誰だって本当の自分を見つけてほしい。








外の雨は、いつの間にか激しくなっていた。大切なパソコンを濡らしたくなくて、今日持ち帰るのはやめることにした。




先生、絶対に見ないでね。



ロックをかけたでしょう。大丈夫だよ。




私の秘密が詰まった画面。夫や家族にも、先生にも見せない、私だけの世界。




呼んでもらったタクシーに乗り込む。雨に濡れる街の明かりが、車窓の外で滲んでいた。