むかしむかし、あるところに
おじいさんとおばあさんがいました。
二人には大切にしている宝物がありました。
ある日、おじいさんは大きな傷を付けると分かっていながら、宝物を放り投げました。
そして、おじいさんは考えました。
つい放り投げてしまったが、宝物に傷がついたことをおばあさんが知ったら悲しむだろう。よし、これを偽物とすり替えよう。
おじいさんは、宝物を偽物とすり替えました。
おばあさんは、宝物がすり替わったことに気がつきません。
そのまま二人は、幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
大学生の頃に仲良くしていた友人がいた。
彼女は長く付き合っていた彼氏がいたのだが、あるとき浮気をしてしまう。
そして彼女は私に言った。
彼に知られなければ、彼を傷つけることもない。
彼女の話に心に引っかかるものを感じながら、それから20年後、私は婚外恋愛の世界に足を踏み入れた。
人並みに人生経験を積んだ今ならば、あのときの違和感を言葉にすることができる。
知られなければ、傷つけない。
冒頭の話で例えるならば、それは、おばあさんが望んでいることなのか。おばあさんが、傷をつけてもバレないようにしてくれたらいいよ、と言ったのだろうか。
真実を知ったら、故意に宝物を傷つけたおじいさんを捨てて、別の幸せを探したいとは思わないだろうか。真実を隠されて、新しい人生を選択肢に加えるチャンスを奪われたことで、おばあさんの時間は無駄になるのではないか。
おじいさんの立場になった私は、宝物をすり替えながら思っている。
今まで築いてきた家庭を失うのは怖い。自分が悪者だと責められるのはつらい。大きな損害を被るのは避けたい。
いや、難しいことを考えるのはよそう。危険を冒すのに、わざわざ楽しみに水を差すなんて馬鹿げている。私だけが悪いんじゃない。相手だって、宝物を大切にしていなかったじゃないか。
自分の行動にどんな理由付けをしようと、それは個人の自由だ。
私が思うのは、相手を傷つけないためという言葉を隠れ蓑にしてはいけないということだ。
子どものために離婚しなかったのよ、と母に言われるたび、不要な配慮で自分の弱さを上書きするな、と思っていたことを思い出す。
心の奥から自分の本音を引っ張り出して、深い話をすればするほど、多くの人とは分かり合えなくなる。
それでもやっぱり、私と心の通じる恋愛をしたいという人がいたなら、伝えたい。
同じ時間を楽しんでもいい。
癒し合えたら嬉しい。
だけど、心のどこかでは、
どうか苦しんで不倫して。