スイくんの一人暮らしの部屋は、JR中央線の都心に近い駅から徒歩25分の場所にあった。
土曜日の夕方4時。
待ち合わせたの駅のロータリーで、歩道のレールに浅く腰掛けて足を組む彼を見つけたとき、私は腰が抜けそうになった。
あまりにかっこよすぎて、この瞬間を切り取りたいと思った。
舞い上がった気持ちを顔には出さないように駆け寄ると、スイくんが私を見てはにかんだ。
ロータリーを抜けて、商店街の脇道に入る。
スイくんがどこかの店の壁に立て掛けていたボロボロの自転車のハンドルを引いてきた。
これ、俺の自転車。後ろに乗れる?
白いスカートだった私は躊躇したが、仕方がない。ハンカチを敷いて、大人しくまたがった。
自転車は、ペダルを踏み込むたびにギィギィと音がした。
夕食の買い出しで商店街を歩く人が、訝しげな表情で次々に振り返る。
スイくんは気にする素振りもなく私に言った。
ここから自転車で10分はかかるから。お尻を浮かせていると疲れるよ。
私は諦めて身体の力を抜き、スイくんの体に手を回した。
彼の家は古いアパートの1室だった。
座って、と通されたところで、ベッド以外に腰掛ける場所なんてない。
押し入れのドアは取り除かれ、丈の合わない招き猫ののれんがかかっている。
浴室の脱衣所も兼ねている狭いキッチンで、ご飯が炊けたかを確認しながら、スイくんが言った。
この裏においしいお肉屋さんがあるんだ。そこでメンチカツを二つ、買ってきてくれない?
スイくんが靴箱の上にあったヘンテコなガマ口財布を差し出した。
ご飯と玉ねぎのお味噌汁とメンチカツを頬張りながら、私が、他の女の子が使った食器は嫌だ、と言ったので、翌週のデートは横浜の陶芸体験になった。
気合い充分だった私に与えられた粘土は、ペダルを踏み込んだ瞬間に電動ろくろから勢いよく飛び出し、陶芸教室の壁に貼り付いた。
周りが引き気味のなか、抑えきれず、二人で涙が出るまで大笑いした。
なんとなく付き合い始めたのに、なんとなく居心地が良かった。
いつだったか、俳優だった彼のお兄さんと電話で挨拶をしたときに、スイくんが、良い彼女でしょ?と言ってくれたことが嬉しかった。
ただ、ひとつだけ。
私はずっと心に引っかかっていた。
スイくんは、付き合って何ヶ月が経っても、私の身体に一切、触れようとしない。
私たちはまだキスだけの関係だった。
うっすらとそんなことを気にしているうちに、季節は春から夏になった。