朱雀の乳母の話(13) | 気まぐれデトックス

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先日、あの宰相が訪ねてまいりましてね。
わたくしと同じく弘徽殿さまの乳母子としてお仕えしておりました、あのしっかり者の宰相でございますよ。覚えておいででございますか?
あのことがございまして、弘徽殿に仕えておった者は、皆、あるじを喪ってしまいましたのでね。残された者の内で、比較的にもせよ、立場が上にある者が、一人ひとりの身の振り方を考え、世話してやらねばなりませんでしょう。

先月まで宮中に留まって、あれこれ差配しておりましたそうなが、やっと落ち着いて、念願の出家を果たしたとのことで、挨拶にと。


わたくしは、皇子さまのご元服と同時に弘徽殿を離れましたので、かれこれ十年以上も、顔を合わすことはございましても、ゆっくりと語り合う機会など、とんとございませんでしたのでね。会ってみれば、懐かしいやら切ないやら、あれやこれやと、泣いて笑うて、ほほほ、日が暮れるまで思い出話にふけったものでございます。

そうして、わたくしがこなた様に、朱雀院さまや弘徽殿さまのことをお話し申し上げておりますこと、宰相は存じておりましてね。
是非にもこなた様のお耳に入れてほしいと、いくつか、わたくしの存じませんでしたことを語り聞かせていってくれまして。
それゆえ、今日は、そのお話をいたしましょうかと。
いえ、ねえ。お恥ずかしいことでございますが、年が年ゆえ、さっさとお話し申し上げませんと、つい忘れてしまいかねませぬし。ほほほ。


わたくしが存じ上げないことどもと申しますのは、皇子さまが独立あそばしてからの弘徽殿の様子と、あの惨劇の日のことでございます。
はい、宰相は、皇太后さまとして立ち会うておいでなされた弘徽殿さまのおつきとして、あの場に実際におりましたのでねえ。
わたくしは、明石からご帰還なされた後の光る君さまのお姿を、実際にこの目で拝見してはおりませんのですよ。
宰相含め、他の者が申しますには、見違えるように逞しい、大人のお姿になっておいであそばしたとか。
かなり日焼けなされて、お目が鋭く、力強くおなりで、お肩のあたりもがっしりなされて、天晴美丈夫と申し上げたいご様子でいらせられたとやら。
まあ、殿方の十代から二十代は、ほんに劇的に成長なされますでなあ。

明清どのの卜も功を奏しましてか、ようやく、光る君さまのお行方をお突き止めになられた頭中将どのが、お主上のお許しを得て、ご自身、明石の浦までお迎えにおいでになられたのでございます。
「海賊」とやら「水軍」とやら、おそろしげな呼ばれ方をされます者どもの、言わば「客分」といったような形で、重んじられていらしたようでございますねえ。
まあ、まさか、そのような卑しい身分の者どもに守護されたもうて、都へお上りなされますとは、ほんに驚きましてございますよ。
頭中将どのが、出発前にお主上の勅許を得ておいであそばしたゆえ、謀反のなんのと言いがかりをつけられるようなことはございませんでしたが、弓刃を携えたもののふどもが、数多都へ向かっていると思いますと、何やらおそろしゅうて。
女どもは、このまま宮中に留まっているのと、宿下がりいたすのとでは、どちらがより安全であろうかと、各々思案もし相談もいたしたものでございますよ。
検非違使庁の武者どもと直接に刃を交わされた光る君さまとしては、事を荒立てたくはないものの、頭中将どののお率いなされた左大臣家の私兵だけでは、聊か心許ない、とお考えだったのでございましょうか。
実際、本来ならば妨げる者などいなかった筈のご上京の途次、長道公を支持する武者どもが立ち塞がりおって、ひと戦交えることとなられたのでございますからねえ。

見事に大勝なされて、ほんに、お頼もしいことでございましたよ。
多くの兵を従えて、宮城の門前にお進みあそばした折の、光る君さまのおん有様は、今でも都雀の語り草じゃと申しますよ。

わたくしどもは、何ゆえあの時、謹慎を命じられておった筈の長道公がしゃしゃり出てきたのか、とんとわかりかねておりましたが、なんとまあ、宰相の話では、弘徽殿さまのたってのお願いに、お主上が譲歩なすってしまわれたのが、間違いの元であったと申すのでございますよ。
それも、あなた。
お主上に何度おいでを乞うても、一向に弘徽殿へおみ足をお向けあそばされぬゆえ、弘徽殿さまおん自ら、清涼殿のご寝所までお出ましになり、既にご就寝のお主上のおん枕辺にお座りなされて、お許しが出るまではここを動きませぬ、などと仰せになられたそうにございますよ。
最初は頑としてはねつけておいでなされたお主上も、あまりのみ気色にとうとう根負けあそばし、光る君さまがご入城あそばす前後二日間に限り、長道公のみ参内を許すが、右大臣としての出仕はならぬ、公卿の末席に陪席するのみ、と仰せつけられたとやら。

まあ、ねえ、、、あの長道公が、条件など守りましょうものか。
一歩邸を出てしまえば、もう、我が物顔に。頭中将どのが明石に出向かれてご不在の間を、狙いすましたかのようでございました。

光る君さまが、お主上に対し奉ってご不信のお気持ちをお持ちあそばしたとしても、ご無理ございますまいよ。

腹心の友と申し上げるべき頭中将どのが、お主上の仰せを受けてお迎えにおいでになられたというのに、検非違使くずれの武士どもに迎え討たれる、謹慎しておる筈の長道公が朱雀門の前で待ち受けて、お主上のご下知じゃと偽りの勅状を読み上げる、それも、ようやく二十歳の光る君さまを、お主上の補佐役として太政大臣(だいじょうだいじん)にお任じあそばす、などと。

どうにもにわかには信じかねる、それはお主上の御本心か、と問い返したもうたと申しますが、さもございましょう。

そもそも、勅勘(ちょっかん)を受けて一年余りも閉居中であった長道公が、よりにもよってあのような場で、お主上のお赦しを得て自由自儘に動いておわすということが、光る君さまや頭中将どのには、お主上のお裏切りのように感じられてしもうても、しかたございませんでしょう。

 

ほんにまあ、何ゆえお主上は、、、

直接、お主上の大御心をうかがいたい、と仰る光る君さまを、長道公はなおも賺(すか)しまいらそうとしたようでございますが、そこへ、頭中将どのの異母兄上(あにうえ)、左衛門督実雅どのが、左衛門府と検非違使庁の武士を率いてお迎えに参じなされ、ようよう、ご兄弟のご対面が叶うた次第、とのことでございました。

お主上は、そのあたりが少し、ねえ、、、あの長道公を、たとえ一日二日でも謹慎から解きたもうたら、どうなりましょうものか。ご誕生の砌から、いずれは、と、お大切にお大切になされてお育ちあそばされたお主上は、どこかお人がよい、と申しましょうか、お考えがお甘くていらっしゃるのでございましたろうか。

 

そのような次第で、本来ならば、ご兄弟なんのわだかまりもなく、親しくお話しになりたまうべきところ、光る君さまは、最初のご挨拶が通りいっぺんにお済みになりますと、お気持ちを抑えがたいご様子にて、こう仰せだったと申します。

「これは、御本心でいらっしゃいますか?兄上。本当のお心をお聞かせくださいませ」

お主上はお主上で、あの長道公が光る君さまに何を吹き込んだやら、ご存じの筈もございません。

可愛いいとしい弟君、少年らしい線の細さがどこかにおありになられた光る君さまが、見違えるような、ご自身とさして違いたまわぬ堂々たるますらおの風情におなりあそばして、射るようなお目でお見上げになりたまいながら、問い尋ね申し上げたまうのです。

なんのことか、と口ごもりたまい、しばし、ご様子の変わられた光る君さまを、しげしげとご覧じあそばしておわしたと申しますよ。

 

「わたくしは、兄上に賜った勾玉を、常に肌身離さず身に着けております。幼い頃より、一途に兄上をご尊敬申し上げ、お慕い申し上げておりました。昔の兄上は、どこへ行っておしまいになられたのでございます?」

強い光を宿した光る君さまの御目は、涙に濡れていらしたとか。

 

お主上は、おそらく、光る君さまが何をお怒りで、何を責めておいでか、お分かりではございませんでした。

ご自身の過ちから、「紫の上」を奪いたもうたこと、実質的に光る君さまを追放同然の御身の上に追いやりたもうたこと、旧検非違使庁のもののふどもが、勝手に光る君さまの上京を妨げまいらせたこと。

その三つ以外、思い当たりたまうことはございませんでしたでしょう。

 

御本心を、と迫りたまう光る君さま。その時、背後の御簾内におわしました弘徽殿さまが、「陛下!」と、きつい口調でお呼び申し上げたというのです。

何を仰せになるおつもりでいらせられたのでございましょう?お主上は、とっさに母上を振り返りたまい、きっぱりと仰せになられたそうでございます。

「光を呼び戻したのは、朕の決めたことです。朕の心は、変わっておらぬ。昔のままに」

緊張した空気を解きほぐそうとあそばされてか、まずは再会を祝う杯を、ゆるりと話そう、とお命じあそばし。

最初の一献を、ご自身から傾けたまい、そのまま、杯を光る君さまへ。

お流れ、頂戴いたします、と、注がれた朱塗りの杯をお口元に運ぼうとなされた、その光る君さまの御手から。

梅壺から、どこをどうやって、あの場へとおいでになられたのでございましょう、「紫の上」が、色鮮やかな鳥が空を舞うように、駆け寄って、杯を奪い取りたもうて。

 

そのお姿を、宰相はまざまざと見ていたと申しました。

宰相は、あの方のお姿を、それまで見たことがなかったと申します。無理はございませぬ。宮中に入られて二年弱、時折、お主上に導かれたもうて禁苑をお歩きになることはあっても、ほぼ、梅壺の「籠」の外に出たまうことはありませんでしたから。

それでも、遠目に見ても、明らかに他の者とは異なる、あのお姿でございます。ひと目で、あれはあの梅壺の御方ではないか?と思ったそうにございます。あのような処で、あの方は何をしているのであろうか?と。

あのような緊迫した場でございませんでしたなら、とっくに他の者に見咎められておわしたのでございましょうが。

あるいは、「人」ではない、「鳥」にすぎぬ、と扱われていらっしゃったがゆえに、不審には思うても、咎め止めだてするには及ぶまい、と周囲の者も思ったのやもしれませぬ。

なんと申しましても、お主上のご寵愛限りない御方であることだけは、御所の雀でさえ知っておりましたでしょうしねえ。

「紫の上」は、いつその場に入っていらしたのかはわかりませぬが、気がついてみれば、光る君さまのすぐ傍においでになった。そうして、おそらくは、杯が光る君さまに渡される瞬間を、待ち受けて、狙いすませていらしたのでございましょう。

たった今、毒酒が注がれたと、おそらくご存じの杯を手に、あの方は、光る君さまを真っすぐに凝視めて、涙の中に、花咲きこぼれるように、美しく微笑んだのだというのです。おいとしそうに、おなつかしそうに。

後にも先にも、あんなに美しい、透きとおるような微笑みはかつて見たことがなかったと、あの宰相が、涙を含んで申しておりました。

身分卑しい、どこの馬の骨とも知れぬ者、と、弘徽殿にお仕えする者は、皆、あの方のことを蔑んでおったと申します。

されど、あの瞬間、この世のものとも思えぬ清らかな微笑みを目にした瞬間、ああ、これはまことにお主上のみ心を捕らえて離さぬ筈の御方、なんと聖浄であでやかな御方か、と、一瞬で腑に落ちたと、泣きながら。

あの方の唇が、光る君さまへ何かを告げるように動き、そしてそのまま、手にした杯を一気にあおり、忽ち喉を掻きむしるようにして、光る君さまの腕の中に、お倒れになられた。

 

抱き留めたもうた光る君さまのお顔も、忘れられませぬ、と宰相は申しました。細いあの方のお身体が、がくがくと震え、唇から真っ赤なものが溢れ出し、呆然と抱き締める光る君さまの御衣を染めて。

頭中将どのが後ろからあの方をお支えして、大きく二度、痙攣したなり、あの方は、意識を失くして、頭中将どののお胸の中で、動かなくなってしまわれた、と。

跪いて、血にまみれた「紫の上」のお顔をのぞきこんでいらした光る君さまは、傷ついた獣のような、凄まじいお声を発されました。

高御座(たかみくら)に立ち上がらせたまい、驚愕のあまり、動けなくなっておいであそばしたお主上に向かって、疾風(はやて)のように。

近衛の者が立ち塞がり、抜刀なされた光る君さまを必死で食い止める様子を、お主上は、ただただ立ちすくんでご覧になっておいでであったと申します。

 

「兄上っ!」

怒りと哀しみと憎しみのこもった光る君さまのお声に、お主上は、我に返ったように、高御座からお降りになりました。

ひとまず清涼殿へ、と近侍の者がお勧めするのに、まるで心を失ったかのようなご様子で従いたもうて、激昂された光る君さまが追いすがり、刃をふるいたまう様を、信じられぬようにご覧じあそばして。

生涯ただお一人、心からお愛しあそばした女人が、血にまみれて動かなくなったお姿を御目に留めたまい、近づこうとなさる、その周囲の、あちらこちらで乱闘が起き、清浄なるべき紫宸殿が血に穢されてゆくのを、声もなく凝視めておわしましたお主上。

そのご視界の端を、色鮮やかな五つ衣を脱ぎ捨てたもうた弘徽殿さまが、するすると進んでいかれました。

宰相は、すぐお傍に侍っておりましたものを、とっさに、止めることもできなんだと申します。そして、それをたいそう悔いておりました。

弘徽殿さまのおん眼差しがひたと据えられていたのは、近衛の者と切り結び、左腕に傷を負われた光る君さま。

そのおん手に、守り刀が煌いて。

光る君さまが刺されたもうた、と思わず宰相が顔を覆ってしまった瞬間に、背後から、弘徽殿さまのお胸を刺し貫いたのは、立ち去るに立ち去りかねておいであそばした、お主上でございました。

弘徽殿さまは、ゆっくりと振り返りたまい、ご自身を刺したもうたのがお主上であると、そのお顔をお確かめあそばすと、守り刀を取り落とされ、驚愕から、まるでこれ以上の至福はない、といったような、とろけるような笑顔を、お主上にまっすぐに向けたもうて、そのまま、お主上のみ胸の中にくずおれてしまわれたとのこと。

 

光る君さまは、大きなお目を、さらに大きく見開かれたまま、お主上をお見上げになっていらっしゃったと。

お主上は、お母上の細いお身体をおいとしそうに抱き締めたまい、立ちすくむ弟君のお顔を、お悲しそうにじっとご覧になられてから、かけるお言葉とてなく、踵を返して、弘徽殿へお向かいなされたと申します。

そうして、そのようになされてしまわれたことを、お主上は、ずっと悔いておいでになりました。

まさか、そのまま、光る君さまがすべてを捨てて失踪なされてしまわれましょうとは。。。

 

~続く~

 

 

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