LOTF2017のCS放送。
まあ、去年も初回放送は色々あったんで、今年もなんかあるかなー、、、とちょっぴり心配してたんだけど、ちょっぴりどころじゃすまなかったんだぜ、OMG!
いやもー、ナニをどうしたら、あそこまでサイコーな舞台の魅力を伝えられない映像編集にできるのであろうかと(-""-;)
寄れば妙な部分どアップに意味不明のボカシ、全身写すかと思えば頭とか脚先とかが切れる、突然要らんスローモーションが入る、全体映したかと思えば角度が変でフォーメーションがわからん、ときた。TBSチャンネルさん、どーしちゃったの???
とりわけ、女性の胸から腰の部分だけをアップにするのは、許しがたい。
大輔ファンサービスのつもりか、大輔さんのお顔のどアップやバストアップショットは大量にあったけど、違うんだよ!!!全身が観たいんだよっ!!!
私だって、彼の美しいお顔は大好物だけどさ、ダンスは全身の動きで魅せるもんでしょーが!
3分程度のPVなら、この演出もアリだと思うけど、これって、2時間ものの舞台をお送りするわけでしょう?舞台全体どころか、ひとりのダンサーの全身の動きすら追いかけられないなんて、ありえない。11台ものカメラ駆使しておいて。
・・・と言いつつ、今のところこれしか映像ないもんで、本日、再生しながらこの駄文を書いてるんですけどねー💦💦💦
さてと。
2016と2017では、大輔さんの位置づけがだいぶ変わった、という話は前にもちらっと書いたけど。
改めて見返してみると、やはり、その表現の幅の広さに驚嘆するよね。
氷の上では、そう言われて久しいけど、まさか、フロアダンスでも、挑戦し始めてわずか2年でここまでなろうとはねええ≧(´▽`)≦
2016の大輔さんは、語り部にして天使。
恋の予感にウキウキなクリスティに、オトコって、時にこんな風にキミをワケわからなくさせてしまうんだよ、、、とちょっぴりワルい表情で忠告し。
肉体的欲望に引きずられるままに男性遍歴を重ねるメリルの前に現れては、優しい表情で抱きしめ、心を救済し。
傷つき嘆くチャーリーに寄り添って、肩を叩き励まし、彼の為に天に手を拡げて祈り。
倒れ伏したシェリルに再び立ち上がって踊り始める力を注ぎ、自分と向き合う為に鏡の前に導く。
ふたつのソロ「Song for you」と「Hometwon Glory」も、曲と歌詞の導くままに、静かな愛とあふれたぎる情感を表現していた。
存在そのものが、天使。
一方、2017の大輔さんは、もはや天使にとどまってはいない。
プロローグの座長感あふれるキレのよいダンス。
「GLORY」では、激しく叩きつける雨、風の中を、痛めつけられても傷ついても、それでも前を向いて毅然と歩いていく、ちょっと「ソナチネ」を思い起こさせる、静謐なる闘士の姿を。
「Singing in the Rain」では、ぴっちぴっち♪ちゃっぷちゃっぷ♪らん♪らん♪らん(^^♪て歌声が聴こえてきそうなくらいに、雨を楽しんでいる可愛らしい少年のような姿を。
「Heathers」では、白スーツに赤い指なし手袋に派手な飾り付のシルクハットに黒サングラス、というとんでもなく胡散臭いいでたちでいながら、チアガール女子に交じって踊って誰よりも可愛いという。いやもう、ここは大輔さんのダンスセンスの抜群なことに、たいがい度肝抜かれましたよ。あれだけのプロフェッショナル・ダンサーの中で踊っていながら、誰よりも動きがキレてていちいちカッコいいんだよ。ふにゃん、と脱力したり、指先をくるん、と翻したりするところが、なんといもいえない絶妙さで音と絡まり合い戯れあって、あのたまらないほどの愛嬌を生み出しているんだ。
「見れば見るほど癖になる」と仰る方が続出していたのも、当然だよね。コレ、高橋大輔の本領発揮だもん。
ホント、こういうの見ると、神様って残酷だよね、ってふと思うのね。これ見せられたら、どんなに凄いキャリア積んできたダンサーズだって、彼がシェリル・バークと並ぶW主演だ、ってことを納得するしかないと思うんだ。ダイスケは確かにこれだけの客を呼んできてくれるけど、単なる客寄せパンダなんかじゃ断じてない、ってね。教えられても、血反吐吐くほど練習しても、これは、出せる人にしか出せない、って類の色香であり薫りだもん。
ちょっと脱線しちゃうけどさ、バレエとか習ってる人とダンス公演観に行くと、必ずと言っていいほど、細かい技術的なことをどっかであげつらい始めるんだよね。
それは、たぶん、お教室で先生から「つま先注意してー!」とか「軸がー」とか、生徒として注意されまくってる箇所だから、自然と目についちゃうんだと思う。
確かに、表現ってのは、そういう細部まで心の行き届いた表現技術の積み重ねではあるんだけど、そこに捕らわれて、全体的に観た時の迫力とか雰囲気とか情緒みたいなものが見えなくなってしまってるのって、正直、もったいないなあ、なんか損してるよねー、って、私はいつも思うの。
だって、どんな名ピアニストだって、演奏中にミスタッチすることはあるけど、その人の解釈そのもの、演じる曲想そのものに説得力があれば、ミスタッチなんて気にならないでしょう?
私はカラオケバトルでカラオケシステムに採点されて勝敗決まるやつとか、あんまり好きじゃないのよ。人が唄い、演じ、踊るからこそ、機械は「ミス」と判断する揺らぎが発生するのであって、その「揺らぎ」にこそ、生ならではのパワーが、詩情が、魅力があるんだと思ってるのでね。
話がそれた。
台輔様に関しちゃ、前回書いたから繰り返さない。でも、言っとくけど、このヒト、あの、黄色い(←違います!)傘さして「わーい(*´▽`*)」って踊ってた可愛いあの子で、Heathersのあのうさん臭可愛い謎の坊やと同一人物なんですぜい。
フラメンコは、2016の時から、色男大輔様炸裂!でしたわね。
2017では、客席での腕と指先と上半身だけの表現による観客煽りがさらに長くなって、眼差しの演技も濃厚に。シェリルと対峙して踊るとこは、その後のジェイムズ先生が最高にイケてるので、まあ、あれだ。コレを氷の上に持ってきてくれたら、オレとしては、思い残すことはない。(←断言)
そして問題の「Hometown Glory」であります。
ナニが問題かといえば、もちろん、当の大輔さんが舞台後のトークでも話していらしたとおり、「かたくななくらいに人前では脱がなかった」大輔さんが、初めて上半身裸体で踊った、って話なんだけど、実は、私、個人的には、初演の時、「ああ、きれい。。。」とうっとり見ていたばかりで、それが「記念日」だの「歴史的なんとか」だのという騒ぎになろうとは、その時点では思ってもみなかったんだよ。
だってさあ、言っちゃあナンだけど、アラサーのメンズですよ?
ダンスやってりゃ、そのうち、そんな話も出てくるに決まってるワケで、、、ってのは、バレエとか大好きで、男性の上半身裸体どころか、パンイチとかも見慣れ過ぎてる、オレがおかしいのかな?(そーかもしんない💦)
アイドル系男子が脱いだ、とかいって世間的にキャーキャー言われてても、「・・・。んな筋肉薄いもん見せられても萌えん。さっさとしまえ」と、心の中で呟いてること、オレしょっちゅうだもんね(^.^;A
というかね、この作品、たぶん2016の大輔さんの踊りの中では、たぶん、サポート以外で一番、問題点があったよね、とオレは思ってたの。こういう、振付られたとおりに踊らなければならないコンテンポラリーちっくな作品て、やっぱり如実に身体コントロール力の差が出るから。大輔さんはとても丁寧に心を込めて踊っていたから、もちろん、胸に響くものはあったんだけど、今回、2017の三人のメンズダンサーによる「Hometown Glory」を観て、あ、やっぱり、こっちのがしっくりくる、って感じずにはいられなかった。
この曲は、全体的に「男女の愛」と「自己を愛すること」をベースにしている公演の中で、若干異質だった。
故郷への愛も、愛っちゃ愛だが、それって「Love」なんだろうか?という。
しかし、生まれたまま、を暗示する上半身裸体で、白人・黒人・アジア系の三者によって踊られることによって、この作品の持つ意味が、「故郷への愛」から「人類への愛」にまで、一気に拡大した。そして、それこそが、今公演で最も訴えたかったことだったんじゃないかと感じる。
「白人の壁」をぶち破った高橋大輔が、氷の上と同様に、髪から指先からつま先から、音楽を増幅し鳴り響かせる。
人は生まれる時、誰しも裸だ。男も女も白人も黒人もない。
そして人は、けっして一人では生きていけない。周囲に育まれてこそ大人になる。時に虐げられたとしても、生まれ育ったその場所、人としての根幹を築いた場所、Hometownは、人によっては具体的な「場所」ですらなく、「舞台」だったり「フィギュアスケート」だったりするのかもしれない。
生まれ育った場所を愛し懐かしみつつ、人は羽ばたいてゆく。時折Hometownに回帰しながら。
回帰できるHometownがある人は、強い。鏡に向かい合おうにも、向かい合うべき鏡を見出すことすら困難な状況も、時にはあって、その時、人はどうやって立ち向かっていくのか。
大輔さんの裸体は、ただただ無垢に美しかった。
途中入る、ドクン、ドクン、という鼓動の音に合わせて波打つ筋肉が、いたいけですらあった。
傷つけられて、踏みつけにされて、それでも美しく誇り高くあれる、今の大人の大輔さんの裡に、なお息づいている幼子のような透き通ったやわらかな心。
できるものなら、そっと、両手の内に抱え込んでだいじにしておきたいいとおしいものを、そこにあることを確かに感じて、目を閉じて、しばし余韻に浸っていたかった。
舞台は容赦なく進んでいく。
エピローグ。いつもの全身真っ赤なスーツの大輔さんが踊り始める。
ここのパートは、2016の時からキレにキレてた。たぶん、こういうタイプの踊りって、大輔さん、一番得意なんだと思う。音楽の求めるところに従って身体を動かしていくと、それが踊りになっている、かのような自然さ。
なんてまあ、変幻自在なんだろう。
氷の上だけではなくて、陸の上でも。
「氷艶」の阿国踊りでもそう感じたように、もはや、彼を、彼の表現の翼を縛るものは、ない。
そこが「氷」である必然性は、なくなっていたんだ。
確かに、「氷」は彼のHometownで、氷の上で彼が踊る、となれば、熱狂して観るに決まっている。
但し、氷には氷ゆえの制約が、今はまだ、あまりにも多すぎる。
大輔さん。
自在な肉体表現の叶う期間は、けっして長くはないんです。
舞台の上は、氷の上よりは、若干長いかもしれない。私の愛するダンサーは、50代まで踊り続けていたから。
ひとつ、断言したいことがある。
貴方は、裏にまわるべき人じゃありません。
貴方の技術、試合に臨む心構え、立ち居振る舞い、後に続く者に伝えてほしいことは、たくさん、ある。
でも、それは、「今」じゃない。
今のこの、どこか歪な世界に、貴方は囚われるべきじゃない。
貴方が望めば、魅力的なオファーはどんどん来る筈だ。
今は、挑戦し続けてほしい。
観ることに囚われ続けている私の、これは、切なる願い。