ホクレア号がくれたカヌーと私の10年間 | Hoʻola ~自分を生きる~

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ホクレア号が、3年の世界航海を終えて帰ってきました。

 

昨日は早朝からFacebookのライブ配信を見て、それから大興奮でカヌー練習に行ったので、夜の早い時間にはもう眠くて眠くて。。。(笑)

 

祝賀式典自体は長かったのですが、その中の一部でありメインでもあるPVSのナイノアさんのスピーチがYoutubeに上がっていました。どんなに素晴らしい成果を挙げても浮かれることなく、相変わらず淡々とした口調ですが、実は内容はかなり熱い!上に英語の字幕が出ます。

 

 

そして、いつも感心するのは、ハワイアンの記憶力のよさ!原稿を棒読みする日本の政治家とは違いますね。ハワイアンは口伝文化だから、その伝統に即して生きる人たちは、相当の記憶力をお持ちのようです。

 

思えば、10年前、ホクレア号が横浜のぷかり桟橋に来たときに、当時のブームに乗って(笑)見に行ったのが、カヌーとの出会いでした。特に深い思い入れもなく、なんとなく行ったその場所で、クルーたちの話を聞いているうちに、「うわ、これってすごく大切なことなんじゃないの?!」と思ったのが始まりでした。

 

それからの10年は、カヌーにどっぷりはまっています。あの何気なく訪れたぷかり桟橋から、ここまでになるとは当時はまったく思ってもいませんでした。

 

ぷかり桟橋でクルー達の話を聞いた時に、「これは日本でもやらなくちゃいけないことだ!」と強く感じ、日本で航海カヌーを作れないかと探し回ったときに出会ったのが、ホクレア号初代クルーの「タイガー・エスペリ」でした。正確にはタイガーではなく、タイガーの教え子たちです。なぜなら、その時にはタイガーは既に亡くなっていたからです。

 

そして、そのタイガーのスピリットを受け継いだ人たちと、一緒に「カマクラ号」を作る活動を始めました。単なる有志の集まりだった団体を、日本ハワイアンカヌー協会(JHCA)というNPO法人として立ち上げ、ハワイ島からカヌービルダーを招聘し、カヌーを作り上げました。そのカヌーの名前は「マノー・カマクラ号」です。今は南伊豆の松崎という地域に置いてあります。

 

その時出会ったビルダーが、アンクル・レイ・ブーマタイです。4月にも会って来ました。


 

そして、ほぼ同時期に知り合ったのが、セリッグ・和子さん。ワールドインビテーショナル・フラフェスティバル日本大会を立ち上げ、実行委員長として運営していた女性です。華奢な体にパワーをいっぱい秘め、ハワイアンのクムフラ達からの信頼も篤い方でした。今は天国で、「茅ヶ崎マカナフラフェスティバル」と名前を変えた本大会を見守ってくれています。毎年このイベントのサポートができることが、本当に嬉しいのです。

 

あたしはこのふたりとの出会いにより、ますます「本物のハワイ文化に触れたい」と思うようになった、とっても大切な出会いです。

 

残念ながら思うところあってJHCAは離れましたが、それからは実際に自分で海に出て、カヌーを漕ぐようになりました。ここでの出会いもとても大切な出会いとなりました。海に出る人たちって、とても正直です。海は場合によっては命を失うようなこともあります。だからみんなとってもオープンで率直です。裏を考えたりしなくて良いというのは、あたしにとっては本当にありがたい。だって「後者」ですからね。。。(笑)

カヌーがある生活が当たり前すぎて、もうこの10年で起こったことを書くこともできないくらいだけど、ホクレア号が無事に帰ってきたことは、自分的にエポックメイキングな出来事です。

 

とにかくおめでとう!お帰りなさい!