さて、クニマス未来館の初代館長・大竹敦さんから送られてきた封書、その中にもうひとつ、すばらしい小冊子がありました。
大竹さんと、最後のクニマス漁師の息子さん、三浦久さん、中坊徹次大先生の共著です。仙北市編。
「クニマスはなぜ生き残っていたのか~田沢湖の漁業とヒメマスの歴史」です。
「田沢湖クニマス未来館ブックレット 1」ということは、これから続いていくのですね!いいですよねぇ。八郎潟プロジェクトや、青池(弘前大)のもこうしたブックレットでした。自然科学とこの手の小ささ・薄さのブックレットってのは非常に相性がいいです。
書影が映せないのが難点だけど…暗めの青い藍色に、黄金色のクニマスが描かれています(いや、もしかしてヒメマスなのか?)
表紙がつるつるしていて、指の跡が残りそうなので、あとでフィルマーかけようかな(図書館本みたいに透明なもので覆う)
これを読んで、やっとわかりました。なんで、クニマスが、西湖に移されたりしていたのかが。。
明治時代、ヒメマスを田沢湖で人工的に育てようという歴史があったようです。
(十和田湖で、ヒメマス養殖に成功した話は有名です)
ヒメマス料理有名だもんね。
ブックレットによると、田沢湖にも…ということで、大々的に養魚計画が始まったそうです。
ヒメマスの卵を孵化場で育て、1903(明治36)年に稚魚を放流。しかし、3~4年で親魚となって戻ってくるはずが、戻らない。関係者の苦悩が、たんたんと描かれています。
↑これは、栃木県にある那珂川水遊園の水槽にいた中禅寺湖のヒメマス。いろんな地で、ヒメマスの魚をもらってトライしていたのですね。そんな説明見落としちゃっていた。今度見てきます
田沢湖から出ていく潟尻川に孵化場があるのがよくないのかと、反対側の春山孵化場を新たに建設しても、ダメでした。…しかし27年目、1931年(昭和6)年の秋、初めて戻ってきたというのです。
でも、「田沢湖×ヒメマス」は、「十和田湖×ヒメマス」のようにはいかないとされ、孵化放流事業は翌1932(昭和7)年度を最後に中止。
↑これは以前撮ったクニマスちゃんです。
ならば「田沢湖×クニマス」を…という流れになったのは自然かもしれません。もともと田沢湖にはもともとクニマスが生きているんですから。県水産試験場は、1907(明治40)年には、クニマスの人工孵化試験をしていました。ヒメマスの孵化を始める少しあとから、すでに始まっていたのですね。
ただ、クニマスの孵化事業も大変な苦労があったようです…
1930(昭和5)年、クニマスから80万粒を採卵、このほかに他県に分譲するために65万粒を採卵しています。これを山梨、富山、長野、神奈川に分譲を継続したそうです。そのうち、西湖に移されたクニマスが、発見されたのですね。
ヒメマスで成功していたら、クニマスには着手しなかったかも。ってことは、クニマスを西湖に移したりはしなかったかも。ということは、ヒメマスで失敗したからこそ、クニマス再発見につながった、ということ。なんという運命的な円環。
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それにしても、これを読んで、いろいろな疑問が出てきました。
まずは、おさかなを、別の地に引越しさせて、根付かせる…そういう発想は、当時から当たり前だったのでしょうか?おさかなの立場になると、ちょっと酷な気がします。でも、養殖漁業ってそういうものか。今も、普通に、こういう漁業の形態はあるのでしょうか。無知ですいませんが…
そして、どうして、最初からクニマスの人工孵化ではなく、わざわざ北海道から取り寄せたヒメマスで始めたのでしょうか?
クニマスの卵をいただいた、ほかの湖を有する漁業に携わる人たちも、クニマスの価値を感じていたのでしょうか。そこは、ヒメマスで試したりはしなかったのでしょうか。
ヒメマスが根付く湖(十和田湖、中禅寺湖)、クニマスが根付く湖(田沢湖、西湖)どう違うのでしょうか。水質(貧栄養の度合い)、湖盆の形状、深さ。いろいろな理由があるのでしょうね。
大竹さんありがとうございます。すごい労作ですね。
また、間違っている点があると思いますので、メールお待ちしています。



