私は、きょうはなんだかなーの気持ちです。

 

つい先日、いつもの神社に行くと、書置き御朱印のみの対応だったため、「出直します」と帰ってきたことは書きました。

 

本日、再度出向くも、またも「書き手が不在」とのことで「出直します」と帰ってきました。

 

うーむ、私はアホなのであろうか?

 

おまいりも「本日は、直書き御朱印がいただけますように!!」だけを切に願って社務所に向かったのです。

 

うーむ。

 

前回は女性の方、今回は、ちゃんと神職の服(斎服?)をお召しになっている方ですが・・・

 

「書き手が不在」ですって・・・?

 

あなたが、書けばいいじゃん‼書けないの?なんの神職よ?

・・・・ってなった(が口にも顔にも出さず引き下がる私)

 

「車で行かない、歩いていく」

「書置きはもらわない、直書き熱望」

「毎月1回行く」

この、私のこだわりがいけないのは、わかってる。

 

しかしながら、お百度参りや、お遍路さんだって、別に科学的なものは何もなく、「その人自身が決めたこだわり」「物語」を達成することで、ご利益を得るのではないのかい?

 

それというのも、最初にここに越してきて、知り合いも誰もない孤独の中、小さいながらも美しい境内で、御朱印活動(ごしゅかつ?)デビューにいただいた、(たぶん)宮司様のお書きになった御朱印の威力、これがもう、ものすごかったからである。

 

しかも、足の神社もある。

 

ここに30分かけて歩いて、毎月1回来て、直書きのパワーをいただきたい!!っていう物語を作ったのです。私自身が。

 

世の中、お金だって、動物にとってはただの紙切れなのに、万人が「お札にはお札に書いてある分の価値がある」と信じているから、流通している。

 

宗教だって、科学的にどうこうは関係ない。死んだら生き返るわけがない。しかし、自分の信じるよりどころとして、自分が選んだから、成り立っているのである。

 

民主主義だって、それが一番、人民のためになると思う人が多いから、今、多くの国でとられているわけで、その実態がどうこうは、あまり関係なんてないのだ。

 

御朱印はスタンプラリーではないが、しかし、形になるものがあるというのは、強い。自分がぼけちゃったら(いや、ぼけなくてもいいんだけどね)、いつ、参拝したのかなんて、証明してくれるのものなんてない。これを偶像崇拝として批判する人もいるが、私はそんな理想主義者はほっとく。観念ほどあてにならないものはないのだ。

 

直書きと書置きは、一緒だよという人もいる。それは、きれいごとである。もしくは、寺社の側の言い分である。1000円も2000円もするカラフルで立派なやつは、その場では書けない。また、殺到すれば、いちいち書いている暇はなく、コピーなら楽勝である。私は、書置きは、無人寺社にこそ置くべきであり、人がいる寺社の書置きは、怠慢だと思っている。

 

一人宮司で、出かけなければならないから、というのも、ある程度譲歩する。

 

しかしながら、二人以上の態勢で、なぜ、留守番の人が書けないのか。その人の給料は、御朱印代も入っているのではないのか。立派じゃなくていいんだよ。別に。書いてくれればいいんだよ。日本人なんだから。書けるでしょ、そのぐらい。

 

バイト要員と明らかにわかる、斎服を来た若い男の子と女の子が、三嶋大社では書いてくれた。バイトだっていいんだよ!ありがたいよ!

「書置きではありませんが」と言って、書いた紙を持ってこられた高林寺の御朱印は、つたない字であった。しかし、それがよかった。立派な書置きをパッと出されるより、なんぼ尊いか

 

もう、5月の休みは、予定があって、行けないんだ。「何回も直書きほしいってくるへんなおばさん」という私、このさきの御朱印道、また、この神社への私の気持ちを、いかがしたものか。うーむ、というしかないのだ。残念なのだ。

 

ほんとに感動したんだけどなー。前の宮司様の書いてくださったの・・・

代替わりってほんと、すべてぶっ壊すよな。