東北人ですが、初めて、白河の関にまいりました。しかも、福島県側からではなくて栃木県からです。つまり、「出口」ではなくて「入口」として。

(よく、白河の関は、「玄関口」と称されますので、言葉通り。東北人からすると「玄関口じゃなくて、出口だよね」って言いたくなるけど)

 

 

4月並みの陽気になるというので、薄着で行ってしまいましたが、あまりの強風で車の中にある上着を一枚着ました。私のほかに女性の観光客が1人、で、私と入れ違いにお帰りになったので、つまり見て回っていた間は私一人です。

 

予習をしていかなかったので、いろいろ、大間違いをしていて、恥ずかしい限り!

 

★1★関って、関所のことだよね~

→三森繁「白河関史記」2001によると

「大和朝廷が蝦夷の南下を防ぐと同時に、関所を要衝の地に置き、蝦夷攻めの本拠地にした」

とのことで、「関所」というと、高速道路の料金所みたいな、通行するときにチェックする場所というイメージですけれども、この白河の関というのは、軍事拠点だったのね!知らんかった・・・・だから「白河の関所」では、ないのね!!

 

★2★江戸の参勤交代とか、旅の人の通行手形確認の、関所みたいな木造りの門とかなんかがあるのかな~

→大和朝廷の話だった!江戸より、ずっと前!5世紀前半に設置だそうですから!そんなの残ってないね~そりゃぁ

 

★3★芭蕉が、おくのほそ道でやってきて、「越すに越されぬ白河の関」って詠んだんだよね、でもそんな歌碑はどこにもないぞ~

→越すに越されぬ白河の関って言ったのは、高校野球の優勝旗が東北をなかなか超えられないってことを、マスコミかなんかが言い出したっ・・・ってことよね?

「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」をもじったのか?「越すに越されぬ大井川」のほうが、近いか?

 

★4★「奥州三関」の一つってことは、奥州街道上かと思ったけど、奥州街道の国道4号から全然外れてるよね・・・

→同上「史記」によると

当時の古道は東は東海道、西は北陸道、中央は東山道の三筋でした。白河関跡は東山道に続いているもっとも重要な場所

「東山道」を調べても、よくわかりません。これは未解決案件です!!いったい、その、昔の道は、どうなって、こうなって、今に続いてるのかな?

 

★5★しかし、平兼盛とか、能因法師とか、だいぶ古そうな人たちが来てるのね~

→そりゃぁそうだ!関が機能していたのは奈良・平安時代なんだからね・・・

同上「史記」によると

「承和2(832)年ころには無頼の徒が陸奥に逃げるようになり、このため通行人の検判はかなり厳しくなりました。延暦18(799)年の太政官符には、「白河関(※難しい字)」の文字が認められています。関としての機能は相当果たしていたようです。しかし律令政治の衰退と歩調を合わせるようにしてその「実」を失ったわけですが、廃絶は12、3世ごろというのが通説です」

つまり、当初は、蝦夷追討の本拠地だったのが、東北に逃げる人を取り締まる、「関所」的なところになったのだろうかな?それで、鎌倉時代ごろまでは、あったのかな?これも未解決事案


 

それにしても、無知って恐ろしい。。。。

しかも、私、いろいろ、中に入って写真とか撮ったり、説明版流し読みしたりしたのに、これら史実を知ったのは、帰宅してきて、図書館で借りたこの小冊子を読んでからですよ。(いかに、現場で、文字を読まずに文字の写真撮るだけで終わってるかという・・・)

いやーお恥ずかしい。

 

この小冊子は、著者の父上、白河関保存会の三森忍氏が、昭和43(1968)年、国指定の遺跡と決まってから、観光客が増えたため作ったものを改訂したものです。B5判、38ページ、しかし中身は重厚です。

 

 

しかし、それにしても、蝦夷といい、無頼の徒が逃げるという表現といい、白河にお住いの方が書くのは、なんとも切ない気持ちだったのではないでしょうか・・・

(サントリー社長が昔、暴言吐いたよね)

 

こんなことも書いてあります。

三世紀中期のわが国は、小独立国家が分立していました。その中で最も力があったのが邪馬台国です。五世紀ごろにようやく大和朝廷が全国を制覇しました。当時の情勢を明記した皇国史要にはこう書かれています。

「かくして西の国は平ぎたれど東北の国々はまた穏やかならずと聞えぬ。東北の境は蝦夷とて別種の人、はやくより住居せり。こはもと津軽海峡を渡って渡来した人物なるべし。この人種は、冬は穴に籠って寒を防ぎ、夏は木を構へて巣所となし、山を登ること鳥の飛ぶ如く、野を行くこと獣の走るに似たり。恩を覚えず、常に草の間に隠れ、山の中に入りて、その居る所定めざりきとぞ」

続けて蝦夷征伐に触れて「天皇はやくこれを平げむと御心をなやましけむ。武内宿彌をやりてその状を察せしめ給ひぬ。是に至り倭建命に吉備武彦、大伴歩日をそへて、うち向はせ給ひぬ」

大昔の客観的史実をとどめようと書かれていますが、著者、忍氏はノーコメントにっこり

それ、「わかるわかる」って私は思います。いや私も東北人だからさ、「平定」される側の地に住んでいる人の子孫だからさ、天皇側がこういうスタンスってのは、なんか切ないね。縄文人をさしているのか、アイヌ民族を称しているのかアレだけどさ、動物のように描写するのはまだいいにしても、「恩を覚えず」ってなんだよムキーって思うわね。

 

一周歩いていたら、雪道になってしまった

 

それと、また後日に回すかもしれないけど、疑問がいろいろ

・「奥羽三関」って勿来の関はまあ、浜通りの関なんだろうけれど、「念珠関」ってのは山形の鶴岡市ってなってるけど・・・日本海側から来るのか、どうなってるのか未解決事案

 

・わたくしの故郷、小3の音楽の授業で習うので今でも歌える「福島市歌」、「東北の関門、若きわが都市」っていう歌詞があるんだけど、この「関門」てどういう意味なんだ?白河市歌だったらわかるけど・・・北原白秋先生、感覚的に作ってない?古関先生なら、地理的にそうは書かんよね。未解決事案

 

 

それから、この場所を白河の関があった場所だ!って断定したのが、われらが松平定信公だということも、知りました。松平公にとっても、昔々のことだった、というぐらい、ここは昔々の、大昔の場所だったのですね。