よく古代ローマ時代の奴隷が現代のサラリーマンであると言われることがある。
奴隷とサラリーマンの違いは、そうであることに本人の意思が介在するかしないかが違う。でも待遇そのものは大きくは変わらない気がする。
現在の日本の憲法では奴隷制はないことになっているから、仮に奴隷制のような状態であったとしても、法律上は奴隷は存在しない。
戦争捕虜のような人が奴隷として売られると、人でもあり物でもあるような立場の労働力となる。値段は高いから、主人にとっては貴重な財産になる。衣食住は主人が提供するし、主人の名前を名乗ることになる。今のサラリーマンは、衣食住は保証されないが給料という定額を支給することで勝手に生活している。電話や自己紹介で名乗る時は会社名を名乗るし、名刺には会社の名前が併記されている。会社には経営者という個人がいて、従業員を雇用して給料を払っている。
違うのは、奴隷になろうとして奴隷になる人は通常はいないこと。また、奴隷でいることは、不名誉なことであること。しかし奴隷には、解放される場合がある。奴隷解放をされることで、市民権を得られる。市民権を得られると、もはや他人の財産ではなく、自分で財産を持つこともできる(古代ローマの場合は、外国人労働者だった人が、ローマ市民になって行くプロセスともとれる)。
企業の従業員は、どこかのタイミングで、自らそういう生き方を選んでいるから、本人の意思が介在しており、誰かに奴隷にされるのとは意味が違う。しかし奴隷が、烙印を押されたり、鎖に繋がれたり、鞭打たれたりするのと同様に、大企業でも中小企業でも、現代でもそれに近いように思う。転職といって、別の企業へ行っても同じことになるだけだ。上司に呼ばれるだけで、怒られるんだと思って身構えるような人になりやすい。
もっとも日本には、古代の奴婢のようなものは、日本史的には解体されており、各階層ごとに身分制があった、というのが最近の解釈のようだ。つまり豪農は、雇われ人を大勢抱えているし、商家でも同様だったろう。個人事業主だからえらいというわけではなく、支配者層の武家は、誰かに仕えている。藩なら藩に仕えていたし、新撰組でも白虎隊でも海援隊でも、隊士になりたいと志願してなる場合もあったろうし、家柄または本人の意思で自らそうなる。自分は、会社に入るとは、そのようなことと考えていた。
しかし会社員をしていると、そこで働いている従業員は奴隷な感じな人が多数にのぼるように感じられる。それが不快であり、違和感があって、人間には違いないんだけど、人間というよりは、仕事をするための「物」としての面が強いような感じがして、それはそれで優秀なんだろうけど、そうすると、理想はともかく、実体験としては「サラリーマンは奴隷である」という結論にならざるを得ない。つまり古代ローマ時代の奴隷制が、中世の農奴制となり、その後の民主政治となって行くが、元は生産手段である農地の付属物、従属物だったものが、産業革命を経て、様々な労働に従事するようになった。
資本主義制度は、西欧社会からアメリカを経て移入されたようなものだが、アメリカでは労働に自由意志を認める方向だけども、日本で実際のところ、自由意志で働いている、という状態にある人は少ないのではないかな。辞められないだけではないか。