はっきり言うと皇室の伝統にはなじまない。
なぜかというと、皇室の伝統とは、言葉であるからだ。対極にあるものは力である。力とは、かつては豊臣秀吉や徳川家康が行使したものでもあるが、今では中国共産党や、共産党ソ連の正統な後継者であることを自認するロシアの統治する国家のような国家形態のことでもある。
アメリカはあれでも、言葉により統治される国家である。西欧社会は、いうまでもない。西欧社会に取り込まれた中東欧もそうである。
天皇陛下の言葉とは、たとえば災害にあった国民を思いやる言葉である。国民のみなさん、大丈夫でしたか、と。赤の他人であったとしても、そのような言葉を受けるだけで人は救われたような、自分は見捨てられてはいない、というような心待ちになる。実際には天皇や皇族が何かをしてくれるわけではない。復興予算を組むようなことができるわけではない。しかし、言葉で話の筋道を通すことに、天皇家の役割があるのである。
天皇家は、たとえ武家に実権を握られても、歌で考えを表明することを欠かさず続けてきた。
これに対し、小室圭は、見る限り、自分の考えを言葉で述べるということを行なっていない。母の借金は、実際には母の借金ではないと認識しています、という考えであればそのように述べるがよい。そうすると、返済すべき義務はないものと考えます、という結論になる。それに国民の多くが同意するのであれば、それで世界がまわるのである。
しかし、お金がもったいないので、自分の本心はともかく、返さない態度をとっておいて、資金に余裕ができたら、しょうがないから解決金払おうかな、それで許してもらえるかな、というか、結局は力ずくで人のお金をとっておいて、返さないつもりでいたけど、そのうち立場が悪くなってきたら、考えを変えるような、下劣というか姑息な物腰では、到底皇族というわけにはいかないな。
たとえば昭和時代の天皇なら、GHQと対峙するのに、命の危険を感じても、決して考えや態度を変えなかったはずだ。だからこそ、国民の信頼を得られるのであり、本土決戦を避けることができたのも、天皇陛下のラジオ放送があったからである。
天皇家は言葉でこの国を統治しているのでありお金や力で統治しているわけではない。言葉を満足に操ることすらできず、力関係や金銭の授受で人の心をどうにかできると思っているようでは、小室圭氏は皇族というわけにはいかないな。