憲法9条改正案について | きっしーのブログ

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 自民党では9条改正案が両論併記となっている現状をふまえて、9条について意見が集約されなければ、ほかの論点に議論がすすまない。
 現行憲法は、英文からの翻訳だが、これを訳したのは白洲次郎と2人の外務省の翻訳官であったとされる。今の時代に、白洲次郎レベルの人がいるだろうか、と考えると、一人思いつく。村上春樹はどうだろうか。芦屋に一時期住んでいたようであり、神戸の同じ高校を出ているらしいから、本人も意識しているようである。村上春樹は左派に近い思想かもしれないが、対極の人の同意も得られなければ、憲法改正のような大事は成し遂げられる気がしない。英語の小説からの翻訳もしているようであるし、海外での知名度も高い。日本語監修と、前文の起草に力を貸してもらえるようなら、おそらく彼が起草した憲法なら国民の過半数の支持は、得られるように思う。ノーベル平和賞が得られるかどうかは、保障の限りではない。
 現行憲法と明治時代の憲法とでは、内閣総理大臣など大臣が国会議員でなければならないかどうかが、違う。旧憲法では、衆議院議員の総理大臣はいても3人ぐらいで、多くはむしろ貴族院議員であり、大臣になったので同時に貴族院議員にもなるとか、官僚や軍人として評価されたことで勲章により貴族院議員となっていた人が大臣となるなどしていたようだ。現行憲法では、内閣総理大臣以外の大臣は、首相が任命するだけで天皇から大臣として臣下として認められているわけではないから、形式的に大臣という呼称を使われているだけで、実際には、大臣ではないですよね。そうすると明治から戦前は、誰でも官僚や軍人で出世することで大臣になれたけれども、今では大臣になるためには、与党の党首となるか、または野党の党首が政権交代を起こすしかない。このような状況では、戦前の日本が決めた日本による日本の方法の方が、はるかに夢があってよかったと思うわけです。
 たとえば東大を出て、官僚になったとして、頂点は事務次官なので、それすらなるのは難しいけれども、大臣の下でしかない。大臣になりたければ、官僚をやめて選挙で国会議員にならなければならない。そんなものかと思っていたけど、戦前の日本が決めたやり方では、そうではなかった。外交官が外務大臣となってもいいわけです。外交に強い与党の国会議員だからというだけの理由で、本職の外交官以上の仕事ができるのだろうか。
 憲法前文にいう「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」という部分は、外国にとってそれが都合がいいからで、戦前の元老とか枢密院などの仕組みはなくなったけれども、今は特に与党にあっては、世襲政治家による権力の維持が継続して行われているのが実情であり、普通に優秀な人にしてみると、街頭演説をどのようにするかなどよりも、自分の学業や家業を優先しているのが実情ではないか。
 憲法の9条改憲案では、2項を維持して3項に自衛隊を記載とする公明党に近い案と、2項に戦力保持を明記して自衛隊を記載する案とがあるようである。現行憲法解釈では、戦力は自衛のための必要最小限の戦力は戦力ではないという法解釈をとっている。現実論としては、そのまま行くべきである。
 護身用の銃を持っていたとして、それが戦力であるとか、戦争の準備をしているということにはならない。たとえば太刀をはいているとか刀を差しているとか、名字帯刀が許されていた時代には、帯刀することが正装であった。廃刀令がでて以降は帯刀しないけれども、世界中に廃刀令を出すことはできないのだから、国際的には現行自衛隊の存在は正当化されうる。
 第2項を廃して、戦力として自衛隊を保持する、などとしては、つまり「自衛隊は戦力であったのだ、これまでは憲法違反だったのだ」と自白をしたことになるので、一番重要な主張を撤回したことになり、そうすると、たとえば裁判の場合は負ける(この場合は、国会の議論で負けることになるので、強行採決をしたとしても、おそらくは国民投票の結果、ひっくりかえる)。
 憲法9条1項は1つの文章なのに、2項は2つの文章から構成されている。戦力非保持の次に、交戦権の否認というところがある。ケーディスは交戦権ということは実はよくわかっていなかったと言っているようだが、総司令官のマッカーサーは日本は自衛のためでも軍事力行使は行わない、というのが方針だったようなので、その通りの意味だろう。憲法を厳格に解釈した場合には、集団的自衛権を含む全ての交戦権は日本にはない。憲法上、日本は外国の軍事力行使に無抵抗でなければならないのである。なので、自民党内の異論に配慮した結果、「交戦権の否認」部分を削除して2項を存続させて、3項には「自衛隊は、国を防衛し平和を維持する」という条項を入れて与党案とすべきであると思う。