思い出のプロ野球選手、今回は古賀 正明投手です。 

 

昭和50年代にセパ両リーグ2球団ずつ計4球団に在籍し、交流戦のなかった時代に全12球団から勝ち星を挙げる離れ業を達成した選手です。

 

【古賀 正明(こが・まさあき)】

生年月日:1949(昭和24)年4月11日
経歴:日大三高-法大-丸善石油-太平洋・クラウン('76~'78)--ロッテ('79)-巨人('80)-大洋('81~'84)

通算成績:211試合 38勝54敗8S 794⅓投球回 24完投 3完封 456奪三振 防御率4.59

入団:太平洋('75 ドラフト1位)

投打:右右 現役生活:9年

記録:全12球団から勝利('83.10.4) ※史上2人目

 

 

 

個人的印象

渡り鳥投手、ですね。

とにかく同じ球団に長くおらず、プロ入りが遅かったこともあり現役生活がわずか9年でしたが、その間に4球団を渡り歩き、1年ごとに球団を変わっていたイメージがありましたが、実際に78年クラウン、79年ロッテ、80年巨人、81年大洋…と4年連続で在籍球団が異なるという事は長いプロ野球史上でもほとんどないのではないでしょうか?

 

 

プロ入りまで

出身は福岡県ですが、後に東京へ引っ越して高校は名門の日大三高でした。

高校では2年からエースになっていますが、都大会の決勝や準決勝で敗退し、甲子園への出場は叶いませんでした。

その後大学は法政大学へ進みますが、ここではほとんど出番がなく実績も限りなくゼロに等しいレベルだったといいます。

更に社会人の丸善石油へ進み、愛媛県松山市を本拠に活動し、当初は控え投手からエースになり、毎年のように都市対抗に出場しています。

社会人3年目の1974(昭和49)年、阪神からドラフト指名されますが拒否し、翌1975(昭和50)年のドラフト会議で、当時の太平洋クラブ・ライオンズから1位指名を受けて入団しました。

 

 

新人王争い

ルーキーイヤーは1976(昭和51)年、開幕してすぐ27歳になる頃でした。

ドラフト1位での高齢入団、即戦力として期待されるのは当然の事でしょうが、27歳の誕生日を迎える6日前の4月5日には一軍デビューを果たし、しばらくはリリーフでしたが5月には先発を務め、5月のうちに初勝利を挙げ、これが初完投、初完封でもありました。

 

結局この年は11勝を挙げ、33試合に登板し11勝13敗1S、189⅓㌄を投げて防御率3.10の成績で、新人王レースを走っていましたが、この年は高卒3年目の南海・藤田学投手が一軍デビューし、前期はわずか1勝に終わり、タイトルは古賀投手のものと思われました。

しかし藤田投手が後期だけで10勝を挙げて猛追、11勝で並んで11勝3敗として。結局10票差で藤田投手が新人王を獲得し、タイトル獲得はなりませんでしたが、この年の太平洋は加藤初投手が巨人へ移籍し、その穴を埋めた格好でした。

 

 

クラウンへ

太平洋では最後のドラフト1位入団選手として、太平洋のラストイヤーで新人として2ケタ勝利を挙げた古賀投手でしたが、結果的にルーキーイヤーのみが2ケタ勝利となってしまい、以後は故障などで思うような投球ができなくなったといいます。

チーム名がクラウンライター・ライオンズとなった1977(昭和52)年は16試合で5勝7敗、71⅓㌄で防御率5.70と規定投球回も割り込みました。

3年目1978(昭和53)年も21試合で4勝8敗、102⅓㌄で防御率4.41でした。

この時点まではまだほとんどが先発での登板でしたが、

・2ケタ勝利

・規定投球回到達

・完封

はルーキーイヤーのみの記録となってしまいました。

 

 

ロッテへ

入団した太平洋、クラウンと過ごしてきましたが、ライオンズが西武になる前にドラ1選手がわずか3年で放出される事となりました。

新生西武ライオンズになるにあたり、ロッテからベテランのレギュラー内野手である山崎裕之選手を獲得するための相手となり、2対2のトレードで、某CMで有名になる倉持明投手と共にロッテオリオンズへ移籍しました。

 

ロッテでは1979(昭和54)年、30歳になる年に20試合に登板しましたが、先発はわずか3試合のみで、4勝3敗2S、57㌄で防御率2.84と中継ぎなりの成績を残しました。

 

 

巨人へ

1979年ロッテでそこそこの成績を残しましたが、またもトレードで今度は2対3のトレードで1980(昭和55)年は巨人へ移籍しました。

この時の交換相手に庄司智久選手がいて、巨人では二軍でくすぶっていましたが、ロッテではリードオフマンして活躍しました。なので相手側にはかなりお得なトレードでした。

古賀投手は23試合に登板し6勝5敗2S、防御率3.99を残しました。

当時の印象としては中継ぎでしたが、実は9試合も先発していました。この当時は江川卓投手が2年目、西本聖投手も先発の柱として活躍し、同級生の加藤初投手などもいましたが、そんな中で先発を務めていたのは立派なものでした。

 

 

3年連続のトレード移籍

巨人でも結局は1年だけの在籍となり、逆にそこそこの成績を残したため、トレード要員として目をつけられたのかもしれませんが、大洋のスター選手である松原誠選手が球団を追われる形で放出された際の相手となって、1981(昭和56)年からは横浜大洋ホエールズへ移籍しました。

 

この1981年は負け数が2度目の2ケタを記録し、規定投球回数へあとわずかの121㌄を投げています。30試合で5勝10敗3S、防御率4.76を記録しました。先発のウエートも高く、目立った戦力として復活した感がありました。

この年まで4年連続で異なる球団に在籍しながら、ある程度の回数先発を務め、この4年を含めて2年目から実に5年連続で「2完投」という珍記録をマークしています。

置かれた環境で、それなりに活躍はしてきたという感じでしょうか。

しかし完投については、この年の2完投で現役最後となりました。

 

1982(昭和57)年はプロ入り初の0勝に終わり、それまでは最低でも4勝を挙げていたので最大の屈辱となりましたが、11試合で0勝1敗、防御率9.75に終わり、当時33歳でもあり、その後が危うくなってきました。

1983(昭和58)年は復活して、30試合に登板し3勝4敗、防御率4.88で97⅔㌄を投げ、まだ戦力になるところをアピールしていました。この年は10月になって、古巣・巨人戦で勝利投手となり、前年までチームメイトであった野村収投手に続いて史上2人目の「全12球団から勝ち星」をあげました。

 

 

引退

1984(昭和59)年は大洋で4年目、現役9年目を迎えていましたが、4年目を迎えたのは大洋が初めてでした。この年は27試合に登板しましたが、0勝3敗で防御率8.37となり、リアルでも記憶にありますが、よく投げていた印象がありました。

しかしながら、この年限り35歳で引退しました。

 

 

その後は1990年代に韓国球団の投手コーチを務め、近年は富士大学の投手コーチとして、74歳になっていますが登録されています。

 

 

 

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