思い出のプロ野球選手、今回は正垣 宏倫選手です。 

 

 

1970年代を中心に主に代打で活躍し、前半は阪急で、後半は広島で渋い打撃でそれぞれのチームの優勝に貢献した選手です。

通算209安打で、これまで本ブログ記事では1,000安打を越える選手を多く取り上げてきましたが、その中では最少となります。

 

【正垣 宏倫(しょうがき・ひろのり)】

生年月日:1945(昭和20)年5月25日

入団:阪急('67・ドラフト4位)
経歴:熊本工高-日大-阪急('68~'76)-広島('77~'80)

通算成績:707試合 打率.236 209安打 18本塁打 101打点 10盗塁

 

 

●個人的印象

広島カープの代打の切り札、です。

カープで代打といえばこの当時(1970年代末期)は、萩原康弘選手、内田順三選手などのベテラン選手がいましたが、彼らよりももっと「代打色」の濃いイメージがあります。正垣と書いて「ショウガキ」と読む、当時の小学校低学年には少し難しかったその名字がまず印象的でした。実績から見るとほとんど阪急でのもので、広島では+α的な積み上げのようですが、阪急時代をリアルで知らないため、それこそ元々広島の選手と思っていたくらい、広島のイメージでした。

 

写真は野球カードのものですが、昭和55年度とあり、引退する年のものです。

体格的な印象は当時あまりありませんでしたが、身長168㎝と小柄な選手だったのですね。

印象はとにかく70年代末期のカープの代打、ほぼこれのみですが、記事を書くにあたりその足跡を書き綴っていきます。

 

●プロ入りまで

高校は名門・熊本工高で、カープでは前田智徳選手が後輩になります。(かなり世代が違いますが…) ただ、この名門校にいながら甲子園出場はなりませんでした。

大学は日大へ進学し、大学では東都大学リーグや全日本大学選手権などで優勝に貢献するなど活躍し、1967(昭和42)年のドラフト会議で阪急より4位指名を受けて入団します。

 

●阪急時代

1968(昭和43)年がルーキーイヤーとなりますが、この年は42試合に出場して少ないながらも53打数17安打で打率.321の高打率をマークしています。

2年目の1969(昭和44)年は同程度の出番で、かなり打率を落とし、10安打に終わっていますがうち4本がプロ入り初本塁打を含むホームランで、安打の4割がホームランというある意味すごい記録を残しています。
この年はまた二軍のウエスタンリーグで首位打者を獲得しています。

当時の阪急は強くなりだした頃で、外野のポジションに空きがなく、なかなかレギュラー定着はなりませんでしたが次第に代打に活路を見出す事となります。

 

3年目1971(昭和46)年が数字的には彼のベストイヤーといえるかもしれません。

打席148とキャリアハイで38安打5本塁打もキャリアハイです。出番もそれまで2年の倍程度に増え、打率も.319を記録しています。

 

●隔年3割

規定打席には一度も到達した事がないどころか、シーズン150打席以上すら立ったことがありませんが、1年目・3年目・5年目と隔年で3割をマークし、その間の年は2割前後の低打率にあえぐという波のあるキャリアでした。

5年目の1973(昭和48)年は打点が21でキャリアハイでした。

1975(昭和50)年は先発出場が少ないながらも増えましたが、ベテラン長池選手が指名打者へ回ったのもあったかと思います。

 

1974(昭和49)以降は2割前後の低打率が続く事となっていきますがチームはそんな中も何度も優勝を重ねていく事となり、1975(昭和50)年には後に移籍する事となる広島東洋カープとの日本シリーズを制し、念願の日本一を達成します。

翌1976(昭和51)年はそれまでどうしても勝てなかった巨人との日本シリーズで、既にV9も終わって優勝からも遠ざかっていた巨人を制しての2年連続日本一を達成しました。

ちなみに本名は正垣泰祐(やすひろ)で当初本名で登録されていましたが、阪急最後の年の1976年より「宏倫」へと登録変更しています。

 

●広島へ

1977(昭和52)年、32歳になる年に永本裕章投手との交換トレードで広島東洋カープへ移籍しました。

広島では特に代打での起用が中心となり、かなり出番も限られ毎年30試合程度の出番となっていきました。移籍初年の1977年こそ.220でしたが、翌1978(昭和53)年は.316(19打数6安打)をマークしています。

左殺しと言われ、阪急時代から左投手の時は出場機会が増えるなどありましたが、代打では特にこの左投手の時に出てくる度合いが濃くなったと思います。

1977年は「代打の代打」で満塁ホームランを放つという珍記録を残していますが、広島在籍の4年間でホームランはこの1本のみでした。

 

●日本一と引退

1979(昭和54)年は広島で初の優勝および日本一を経験しますが、阪急でも広島でも「初の日本一」を経験した数少ない選手となりました。

ただしこの時期は選手として晩年になっており、安打も1ケタなっていて打率も.167と振るわず、翌1980(昭和55)年も17打数でわずか1安打の打率.059に終わり、この年限り35歳で現役を引退しました。

前回記事の三輪悟投手と同級生で、同じ35歳でカープの2年連続日本一を見届ける形で、派手ではなくひっそりと引退しているのも共通しています。

 

 

数字的にあまり派手な活躍はできませんでしたが、代打では活躍し、また所属したチームが当時強くて優勝回数にかなり恵まれた選手であった事も確かです。

 

 

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