思い出のプロ野球選手、今回は三輪 悟投手です。 

 

1970年代を中心に活躍し、前半は西鉄・太平洋で主に先発として、後半は広島で中継ぎとして渋い活躍を見せた投手です。

これまでローテを張ってきた実績のある投手ばかりで、通算では50勝以上の投手しかupしてきていませんでしたが、通算17勝という50勝以下の投手をupするのは初だと思います。

 

【三輪 悟(みわ・さとる)】

生年月日:1945(昭和20)年9月18日

没年月日:2021(令和3)年8月23日(享年75歳)

入団:西鉄('69・ドラフト2位)
経歴:新潟市立工高-新潟市水道局-東光商事-電電信越-西鉄・太平洋('70~'74)-広島('75~'80)

通算成績:335試合 17勝40敗2S 792 1/3投球回 6完投 2完封 372奪三振 防御率3.48

オールスター出場 1回('70)

 

 

●個人的印象

広島の中継ぎで登場する投手で、ワンポイントで使われるシーンも時々あった覚えがあります。あとは派手さがなくてとにかく淡々とした印象があります。

当時の広島には抑えに江夏豊投手がいましたが、その存在感は絶大で、それとは全く対照的な印象でした。「みわ」という名字も、どこか線の細い印象を受けた事を助長したのかもしれないと感じます。
しかし江夏投手は少し年上の彼の事を「悟ちゃん」といって兄のように慕っていたといいます。

なので当時は、彼の前半キャリアの事は知らず、西鉄・太平洋にいたなんて後で調べるまで知りませんでした。

 

●プロ入りまで

高校は新潟県の新潟市立工というところで甲子園出場はなりませんでした。この高校はその後新潟市立高志(こうし)高校と改名し、2013(平成25)年に廃校になったといいますが、プロ野球に入ったOBは三輪投手くらいのようです。

高校卒業後は社会人野球へ進み、新潟市水道局では軟式野球をやっていたといいます。その後移籍したチームで硬式に戻りましたが、社会人を3社経験したプロ野球選手というのもかなり珍しいと思います。

という訳で、高卒後社会人で6年間もプレーした後、1969(昭和44)年24歳の時に西鉄ライオンズにドラフト2位で指名され入団しました。なので25歳になる年での高齢入団となりました。(大卒よりも2年遅れ)

 

●新人時代

プロに11年間在籍した三輪投手でしたが、そのキャリアのピークは新人時代でした。

 

規定投球回数に到達したのと、オールスターに出場したのがこの年のみで、以後派手な活躍は影を潜め、数字で見ると以後ジリ貧になっていった感じがします。

 

という訳で1年目から225 2/3回を投げ、45試合登板の7勝14敗の成績をあげました。

通算勝ち星が17勝なので、半分近くをこの新人時代のみで挙げた格好となります。

 

この当時の西鉄といえば「黒い霧事件」で揺れに揺れていた頃で、主力投手が軒並み抜ける事態になった事も三輪投手がフル稼働する一因になったと思われますが、とにかく1年目は25歳の即戦力新人らしく投げまくった年でした。勝敗でいうと、勝ち星の倍負け数があって、ひどいように見えますが防御率は2.91と200㌄以上も投げて実に立派なものでした。

 

 

●2年目以降

新人時代のみが規定投球回到達ならば、2年目971(昭和46)年を最後に100㌄を切るようになり、この年は規定にわずかに足りず122 1/3回を投げ4勝10敗の成績でした。新人の年は2/3程度先発登板で、この年は1/3程度先発登板をしていますが、以後はかなり先発登板の機会が減ってきます。

2ケタ勝利は1度もないまま終わりましたが、2ケタ敗戦はこの年まで2年連続で記録しており、苦闘の中にもそれなりの出番を得て、実績を得ていたというところでしょうか。ここまで2年間で11勝24敗という通算成績でした。

 

●西鉄から太平洋へ

3年目1972(昭和47)年は67 1/3回に終わり、以後3年間同程度の投球回でした。

この年は2勝4敗に終わり、またこの年以降先発の割合は激減しました。この年で「西鉄」は球団を譲渡し「太平洋」になりましたが、その初年度1973(昭和48)年は4年目にしてプロ入り初の未勝利で0勝4敗に終わりました。

入団以来7勝→4勝→2勝ときて、遂に0勝。しかも毎年負け越しでここまで4年間で13勝33敗と借金20の状態までいきました。

太平洋在籍最終となった1974(昭和49)年は1勝2敗で2年ぶりの勝ち星を挙げましたが、やはり負け越しで、ライオンズ在籍5年間はすべて負け越していました。ただ、この年はそれまで3年連続防御率が4点台だったところが大きく改善して2.49の素晴らしさでした。

 

●広島へ

5年間在籍したライオンズから複数人のトレードで1975(昭和50)年から広島東洋カープへ移籍します。

出番的には22試合の登板で32 1/3回というプロ入り最少のものでしたが中継ぎで何試合にもまたがりながらも長いイニングを連続無失点で乗り切り、防御率1.97と素晴らしい記録を残して広島の初優勝に貢献しました。

それまで所属していた西鉄・太平洋が完全に弱小期になっていて、5年間Aクラス経験すら一度もなく、入団して3年連続最下位だったという優勝が縁遠いなどというレベルのものではありませんでしたが、広島への移籍によりまず「優勝」をいきなり経験する事ができました。

 

その後は完全にリリーフ専門になり、広島では6年間で一度も先発機会がありませんでしたが、翌1976(昭和51)年は3勝0敗11年間のプロ生活で唯一の勝ち越しを記録し、また入団以来の連続負け越し年数を6年で止める事にもなりました。しかしこの年の勝ち星が現役最後の勝ち星でもありました。

 

1977(昭和52)年は0勝1敗でしたが、唯一セーブを記録した年で2Sを記録しています。この年はまだ江夏投手が南海にいた頃で、この翌年にトレードで来てチームメイトとなります。

1978(昭和53)年は0勝3敗ではありましたが、キャリアで最多の42試合に登板しています。ワンポイントで投げたのを見てたのはこの年ぐらいじゃないかと思いますが「三輪がマウンドに上がりました」みたいな実況をTVで聴いた覚えがあります。

 

●連続日本一を見届け引退

1979(昭和54)年は4年ぶりのリーグ優勝および悲願の日本一達成で、0勝0敗ではありましたが26試合に登板し、優勝に貢献しました。

1980(昭和55)年も2年連続で日本一を達成しましたが、この年は入団以来初の20試合に満たない登板(15試合)で17 回を投げただけでした。

連続日本一を花道にするかのように、この年35歳で引退しました。

 

 

通算成績は17勝40敗2Sと、勝ち星を負け数が倍以上上回るものでしたが、負け越しが続いてこうなりましたが、40敗を記録しても11年間で335試合もの登板をしていて、相応の信頼や起用しやすさはあったのかなと感じます。

 

 

引退後はスコアラー、マネージャー、広報などの裏方を主に歴任し、コーチなどの経験はありませんでした。

本記事下にリンクがありますが、著書(マウンド人生-絆つむいで-)を出版したりもしていました。

 

2021(令和3)年8月に75歳で逝去されました。

 

 

 

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