思い出のプロ野球選手、今回は飯塚 佳寛選手です。
 

 

 

主にロッテで活躍し、控えながら小柄な体で渋い活躍を続けてきた選手でした。

本ブログで規定打席に一度も到達していない選手の御紹介は初となります。

 

【飯塚 佳寛(いいづか・よしひろ)】

生年月日:1945(昭和20)年1月26日
経歴:宇都宮学園高-鷺宮製作所-ロッテ('69~'70)-大洋('71~'72)-広島('73)-ロッテ('73~'80)

通算成績:1,065試合 打率.256 593安打 12本塁打 142打点 171盗塁

節目の記録:出場-1,000試合出場('79.10.12)

 

 

●個人的印象

ロッテの控え選手で小柄で小技の利くタイプ、そんな感じです。

昭和50年代のパリーグで、TV中継の少ない中、レギュラーで出ていた選手でもなく、そんなじっくり見ていた訳ではありませんが、その持っていた印象の通りの体格であり、実績でもありました。

また飯塚という名字で「飯」の字を「めし」だけでなく、「いい」と読むんだ、と初めて覚えた選手でもありました。そう、それまで飯塚という名前を「イイヅカ」とは読めませんでした。何しろ小学校低学年の頃でしたので…。

で、この写真は…1980年まで現役選手だったので、普通にカラーの野球カードとかありそうですが見つからず、現役時代の顔がハッキリ映るカットがあまりに少なく、やむなくモノクロのこの写真を載せさせて頂きました。

 

●プロ入りまで

高校は栃木県の宇都宮学園で、栃木県予選で後にチームメイトになる同級の八木沢荘六投手を擁した作新学院に敗れ、甲子園には出られませんでした。

社会人は鷺宮製作所へ進み、ここに何年もいながら1968(昭和43)年の都市対抗での活躍が目に留まったのか、この年のドラフトでロッテから指名を受け、ドラフト14位という最下位の指名で入団をしました。

この年のドラフトは山本浩二、田淵幸一、星野仙一、有藤通世、山田久志、福本豊、東尾修…といった後のビッグスターが数多く指名された「大豊作ドラフト」でした。

 

●最初のロッテ時代

ドラフト14位という最下位指名ながら、一年目から一軍戦で起用されていました。

1969(昭和44)年がルーキーイヤーでしたが、当時24歳、早生まれなので学年的には25歳になる年に新人でした。

この年60試合に出場し、86打数23安打で本塁打はなしでしたが4打点、そしていきなり12盗塁をマークしています。

2年目1970(昭和45)年も同程度の出番でしたが、14盗塁を記録し、足での存在感をみせていました。

 

●大洋へ

当時大洋の別当薫監督に請われ、入団後わずか2年で大洋へトレード移籍する事となりました。

しかし当時の大洋には競争相手が多く、移籍初年度こそ少しだけ出番を増やしたものの、盗塁数は1ケタになり、翌1972(昭和47)年にはほとんど出番がなくなり、一軍では無安打、しかし二軍では盗塁王を獲るほどでした。

 

●幻の広島 そして古巣復帰

結局大洋も2年で退団となり、1972年オフに無償トレードで広島へ移籍となりました。

ロッテ2年、大洋2年と腰の落ち着かないところへ、今度は広島です。

しかもこの広島では、翌1973(昭和48)年の開幕前に古巣ロッテへトレードとなり、結局広島には在籍しただけでシーズンを経験しないままに終わりました。

入団5年目でのべ4球団目という慌ただしさでした。

 

●ロッテに落ち着く

1973年の開幕をロッテで迎え、ロッテと大洋を2年ずつ、広島に至ってはシーズンを待たずに移籍となり、古巣ロッテへ戻ってからは結局引退までの8年間ずっとロッテに在籍する事となります。

そしてロッテへ移るや、毎年100試合以上出るようになり、出番も確実に増えました。移籍初年の1973年は初めて100試合以上(101試合)出て、5年目28歳でプロ入り初の本塁打を打ちました。

移籍2年目の1974(昭和49)年には2度目のリーグ優勝、そして初の日本一を経験しました。2年目の1970年にもリーグ優勝は経験していますが、この時はさほど出番はなく、1974年は319打席に立ち、ほぼレギュラークラスで過ごしたシーズンでした。

 

●昭和50年代

その後は優勝からは遠ざかりますが、準レギュラーからレギュラークラスで活躍し、30歳を越えた1976(昭和51)、1977(昭和52)年と382、390打席といずれもあと僅かで規定打席に到達するところが、結局1回も規定打席には届きませんでした。

1977年は104安打と唯一の100安打越えを記録し打率も.306と好調で、あとわずか13打席で規定打席に届いていたら、.306だと打撃ベストテンの7位に顔を出していたところで、大変惜しかったというものです。また1974年からこの年まで4年連続で20盗塁以上を記録しており、

この1977年をピークに徐々に出番は減っていき、それでも1979(昭和54)年までは300打席近くの出番があり、盗塁も10個を記録していましたが、1980(昭和55)年に入ると出番が激減しました。

それまで9番ショートが定位置でしたが、晩年は水上善雄選手が台頭しショートのレギュラーを獲ると、セカンドに回る事が多くなっていました。

打順は9番が最も多く、次に2番という感じでした。小技の利くタイプでいかにもクリーンアップ向きではないタイプの選手でしたが、打順データ的にもクリーンアップは一度もなく、逆にこれ以外の打順はすべて経験しているという記録が残っています。

 

1980年に35歳で現役を引退し、その後はコーチに転じました。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村