思い出のプロ野球選手、今回は高井 保弘選手です。
 

 

阪急黄金時代の主力打者として、また代打男として活躍し通算代打本塁打の世界記録をもつ選手で、太めの体形からブーちゃんの愛称でも親しまれてきました。

 

【高井 保弘(たかい・やすひろ)】

生年月日:1945(昭和20)年2月1日
没年月日:2019(令和元)年12月13日(74歳没)
経歴:今治西高-名古屋日産モーター-阪急('64~'82)

通算成績:1,135試合 打率.269 665安打 130本塁打 446打点 11盗塁

表彰:ベストナイン 1回('77)

オールスター出場 1回('74)

節目の記録:出場-1,000試合出場('80.8.14)

      本塁打-100号('79.6.12)

その他記録:通算代打本塁打 27本(世界記録)

 

●代打男

個人的印象ですが、自分がプロ野球を見始めた時に「代打男」として知られていたのがこの高井選手であり、自分が代打男として初めて認識した選手でした。

この体形からか、その存在を覚え始めた当初は南海の門田博光選手と混同していました。

 

●世界記録保持者

通算成績はそれほどものすごいものはありませんが、なんといっても通算代打本塁打が27本という「世界記録保持者」です。

自分が彼の存在を覚えたのも、代打本塁打の記録の持ち主という事で、もっぱら代打の人だと思っていましたが、意外にも規定打席に3度到達し、またオールスターに出たりベストナインを受賞したりもしています。現役晩年しかしらない身としては、この事を後から知って驚きでした。

 

●プロ入りまで

愛媛県の今治西高校で甲子園の出場機会には恵まれなかったものの、かなり有名な選手であったようで、高校卒業後は社会人の名古屋日産モーター(後の愛知日産自動車)へ入り、そこから程なく1964(昭和39)年に阪急に入団しています。

 

●下積み時代

阪急に入団し、最初の2年間は一軍で出番がなく、3年目1966(昭和41)年にようやく一軍デビューを果たしましたが、12試合で12打数1安打の.083で0打点に終わりました。

翌4年目の1967(昭和42)年は少し出番を増やし、77打数17安打で.221、1本塁打8打点と、初安打、初打点、初本塁打はこの4年目にようやく記録しました。

しかし翌5年目の1968(昭和43)年はまたも一軍なしに終わりました。二軍では本塁打、打点の二冠王を獲るなど大活躍でしたが、一軍からは声がかかりませんでした。

 

その後も一軍には出るものの、出番に恵まれず、1970(昭和45)年に5本塁打したぐらいがそこそこ活躍できた年で、これ以外はチームが何度も優勝を経験していく中、8年目1971(昭和46)年まではこのような状態が続きました。ここまでの通算成績として36安打6本塁打24打点というところで、よく首が繋がっていたと思いましたが、転機は9年目1972(昭和47)年にようやく訪れました。

 

●活躍期

1972年は56安打で15本塁打44打点と、打席は246にすぎませんでしたが、豪打ぶりを目立ってみせるようになり、戦力として初めてまともに働いたと思われる数字を記録したと感じます。

以後の3年間は100打席台の限られた出番の中で、そこそこ本塁打を放ちキャリアを積み上げていきます。そんな中で大きな実績をあげていない1974(昭和49)年に現役唯一のオールスター出場を果たしています。この年は代打本塁打の「日本記録」を更新した年でもありました。またこの年はシーズン代打本塁打6本という日本記録を成し遂げましたが、この記録は2年後に大島康徳選手(中日)によって「7本」で更新される事となります。

 

●世界記録達成

1975(昭和50)年、30歳のシーズンでしたが8月27日のロッテ戦で通算19本目の代打本塁打を放って、ジェリー・リンチという選手が持っていた代打本塁打の世界記録を更新しました。これ以降現在に至るまで半世紀近くにわたり、高井選手がこの記録の保持者であり続けています。

 

●レギュラー奪取

高井選手のキャリアで驚きなのは、1975年に代打本塁打の世界記録を樹立したにもかかわらず、これ以降にレギュラーとして試合に出ていたという点です。

初めて規定打席に到達したのが、1977(昭和52)年でした。プロ14年目32歳の年で、遅咲きという事になるのでしょうか。それまで指名打者で君臨していた長池徳士選手の衰えが目立ち始め、彼に取って代わる形で指名打者としてレギュラー出場するようになり、初めて100安打を越え(101安打)、キャリア唯一のベストナインを指名打者として受賞し、阪急の3年連続日本一(V3)に主力として貢献する事となりました。

その後も含め1979(昭和54)年まで3年連続で規定打席に到達し、1978(昭和53)年は22本塁打と初めて20本を越えて豪打を爆発させ77打点の活躍で、打率も.302と初の3割越えも記録しました。また1979年は34歳ながら2年連続の3割となる.324の高打率をマークし21本塁打66打点と活躍しました。この年には通算100号本塁打を達成しました。

この3年間はいずれも110試合台の出場で、規定打席も少し超えた程度でありましたが、代打男のイメージが個人的にすごく強かったので、こんなにも主力でかつやくしていたなんてリアルで気づいていませんでした。

 

●1980年代 引退

1980(昭和55)年、35歳を迎えていましたが、打撃不振に陥り控え捕手であった河村健一郎選手に取って代わられる形で出番を減らし、成績も下降していき、チームも優勝と縁遠くなっていき、阪急黄金時代に活躍した選手がベテランとなり戦力として落ちていく、多くの選手がそうなったように同様の道をたどる事となりました。そんな中で、この年には通算1,000試合出場を果たしています。

 

1981(昭和56)年も出番を減らしますが、本塁打は7本から9本へと盛り返します。この年の9月に代打で放ったサヨナラ本塁打が現役最後の代打本塁打となり、1975年に19本で成し遂げた代打本塁打の世界記録を最終的に「27本」にまで伸ばしました。

1982(昭和57)年はわずか6安打1本塁打2打点に終わり、37歳で引退しました。早生まれなので38歳になる学年と同い年となります。

 

 

引退後は解説者がメインで、その後店舗経営を経てサラリーマンになるなど苦労していたようですが、2019(令和元)年に74歳で逝去されました。

 

1981(昭和56)年、現役時代(引退前年)の名鑑です