そろそろ受験の季節がやってきます。
毎年この時期に見られるのが、合格発表の悲喜こもごもでございます。
特に難関校においては合格者とその親は、優勝でもしたかの如く喜ぶわけですが、それをいつも筆者は冷めた目で見ております。
このような記事が出ていました。
難関校に入れさえすれば人生の勝ち組だと思い込んでる人も多いのですが、実態はそうでも無いようです。
日本の教育の敗北
上記の記事を見ると、高学歴と優秀な人材とが乖離しているのが分かります。
つまり、純粋に学問を教えて、研究させるわけですが、それが社会に出てから使うスキルと乖離しているということです。
その学問の先生にでも成れば別ですが、哲学や基礎科学など、一般的な教育科目では無いものの場合、大学の教員、つまり教授にまでならないと食べて行けません。
しかし教授職に就ける人などごく一部です。
そのような基礎的な学問の研究も、どのように世の役に立つかは分からないからこそ、続けていかなければなりません。
過去の歴史から見ても、それは明らかです。
しかし現在、日本においてはこの基礎学問を学ぶ学生があまりにも多いのです。
基礎学問では無くとも、例えば文学を教える学部が多数有ります。
小説家や出版社の編集者にでも成れば役立ちますが、これも成れるのはごく一部(ちなみに直木賞作家で文学部出身なんてほとんど居ません)。
成れなければ、単なる趣味で、現代社会では役に立ちません。
上記の記事にも文学部の博士号持ちが出てきます。
例えば偏差値が50にも満たないような大学でも、そういった類の学問を教えてしまっています。
そこで学んだ学生たちが、高学歴難民に成っています。
基礎学問なら、東大京大、芸術系なら東京藝大だけにしておくべきです。
その他の大学は、社会に出て直ぐに役立つような、実践的な内容を教えるべきです。
教育で最も重要なのは、学んだことをいかに世の中の役に立てることが出来るか
日本の教育に欠けているものは、ずばりこれです。
過去のブログでも何度も書きましたが、いくら偏差値の高い有名大学に入ったところで、そこで学んだことを活かして世の役に立ち、お金を稼ぐことが出来なければ、何の意味も無いのです。
知識を付け、人生を豊かにしたかったならば、独学で本を読むだけで良い。
高い学費を払って、教授というとてもすごい人たちに講義をさせるならば、それなりの見返りが無ければダメだと思います。
だから有名大学の合格発表で、人生に勝ったかのごとく喜ぶ合格者たちを、筆者はいつも冷ややかな目で見て思うのです
「人生はこれからだぞ」と。
そして50代になって、窓際でろくな仕事が無い状態に成っても、「自分は東大出身だぞ」と息巻くサラリーマンに言いたい。
「あなたは18歳のころの受験テクニックを、50にもなって自慢しているだけ」だと。
また学問は日進月歩で、30年前に取った学士号や博士号など、現代には通用しないと。
日本人は有名大学に入ることで満足してしまっている。
大切なのは社会に出てからです。