3月12日

「宮城・セキスイハイムスーパーアリーナ」での公演が無事、最終日を迎えました。

 

ライブ配信で観た3日間。

 

1日目、2日目、3日目。

それぞれに雰囲気が大きく違った

 

「羽生結弦 『notte stellata』」

 

 

初日

スケーターはどちらかというと「ホスト的な存在」で「観る人達が主役」ということを意識したようなアイスショーという印象を受けた、この公演。

 

羽生君が滑った

『notte stellata』と「春よ、来い」の2つのプログラムも

 

夢や希望という、明るく前向きなメッセージが伝わってくるような、温かさを感じる演技で、何というか、この日はまだ安心して観ることが出来ていました。

 

 

「東日本大震災から12年」の2日目公演。

 

出演者の皆さんがそれぞれ、特別な想いを込めて演技していることが強く伝わってくる中で…

 

この日に捧げる特別な願いや祈りが込められた羽生君の演技は、今まで以上に強い想いが込められていながらも、感情に流されない強さと美しさがあって、胸が苦しくなるのと同時に、プロとしての壮絶な覚悟を感じさせるものでした。

 

あれだけ自分の感情を心の奥から引きずり出して、あれだけ辛い思いを背負いながら、どうやって、それだけの感情を込めた上で、この完成度の演技を披露することが出来るのか…

 

YouTubeへの投稿を選択し、公演では披露しなかった

「天と地のレクイエム」も含めて

 

その全ての演技も、この日のコメントも、3月11日という日に会場に集まった観客の方々の、様々な想いの全てが詰まったあの場所の空気にも…

ライブ配信で観ていただけの私でさえ、疲れ果ててしまったので

 

この日の羽生君の疲労を考えると、ずっと鍛えてきた体力面以上に、きっと長い時間を掛けて強くならざるを得なかったその精神力に対しても、彼の抱えているものの重さを改めて感じた、本当に長い長い一日でした。

 

 

一夜明け、震災から12年と1日となった最終日。

 

この日、彼の演技は、今までとは大きく違っていました。

 

あれから12年経ち、ようやく3月11日という日に

「遺体安置所」となっていたその場所で、亡くなられた方々の命が天に届くよう祈りを捧げ

 

今生きてこの日を迎えた人々に、夢や希望を届けることがやっと叶い…

 

今まで直接果たせなかった使命を、役割を、また一つ実現し、一歩前へと進む新たな決意が、強く伝わってきました。

 

大きな包容力を感じさせる、本物の白鳥のような、繊細な表現がさらに加えられた

『notte stellata』

 

「羽生結弦 × 内村航平」のコラボも

最終日は、2人の集中力や緊張感も、今まで以上に高まっていて、本当の試合のような真剣な表情と、まるで共闘しているかのような演技に、会場の興奮も3日間の中で一番大きかったように感じました。

 

この日演じた「春よ、来い」

今までのどのプログラムでも観たことのないような、溢れ出す感情を全て「表現」に昇華したような演技。

 

あまりにも凄すぎて、どう表現すればいいのか、簡単には言葉に出来ませんが、震災から12年の時を経て「3.11」に被災地で演技をした彼が、プロフィギュアスケーターとしてまたさらに一歩、階段を上がったことを感じさせる、そんな滑りでした。

 

フィナーレで披露してくれた

「Dynamite」

 

映像での陸上ダンスも素晴らしかったけれど、やっぱり生で、スケート靴を履いて、氷上で披露してくれるキレのある動きの方が、より羽生君の凄さを感じることが出来ます。

 

最後のコメント。

この『notte stellata』という公演を終えて、今の気持ちと決意と覚悟を話してくれました。

 

この12年間で、一番辛かったであろうこの場所で、皆さんに希望を届けられることが幸せだと。

 

いろんなことを背負って、これからもスケートのためだけに日々を過ごしたいと。

 

自分の幸せを削ってでも「羽生結弦」として…

 

この言葉があったのは、現地だけでなく、この公演を観てくれている地元や被災地の方々に対して、震災後スケートを続けてきたことにずっと罪悪感を感じていた彼が

「3.11」の公演を終え、これから先の覚悟と、決意を伝える機会だったのだと感じています。

 

前日の公演を無事にやり遂げ、決意を新たに、さらなる覚悟を決めた上での、今日の演技、あの明るさだったのかと思うと、本当に胸が痛みます。

 

 

出来ることなら、いつも幸せであって欲しいと、ほんの少しでも、普通の幸せも手にして欲しいと… 

一人のファンとして、いつもそう願っています。

 

でも、きっと彼は、普通の人生、幸せな人生では決して表現出来ない、苦しみや辛さ、悲しみ、痛みや孤独を知っているからこその表現があることを、誰よりも分かっているのだとも感じていて

 

だからこそ、自分の幸せを捨ててでも、誰かの幸せのために滑り続けようという覚悟なのだと…

 

今の彼の演技が、震災だけでなく、その後に受けた様々な痛みや苦しみによって、さらに表現の幅が大きく広がったことを、彼自身が一番理解しているのではないかと…

 

もの凄く辛いことではあるけれど、ずっと以前からそんな風に感じています。

 

 

羽生君の、あの素晴らしい演技を、その高度な技術の上に成り立つ感動的な表現を、私達が目にすることが出来るのは

 

彼がたくさんのものを捨て、多くのものを犠牲にしながら、ずっと練習を重ねてきた上で、

それ以上の苦しみや、辛さを経験してきたことによって生み出されているものだということを

 

彼を応援し続けるということは、それを心して受け止めなければならないことだと、私自身はそう考えています。

 

 

その上で、羽生君が

「これからは自分の心も大切にしていきたい」と言っていたことを忘れずに、この先の未来へ向けて進んでくれることを、信じていたいと思います。