かろやかに自分を生きる
久しぶりに、小山の実家に帰省。母が生きていた頃は、毎月帰省して1週間近く滞在していた。そろそろ築60年だが、まだまだ快適に住める。処分も考えたが、隣町に住む姉夫婦が週末毎に通い、家と畑のケアをしてくれる。だから、当分はこのままにしている。庭の枇杷の木に、たくさんの実が付いた!せっかくなので、少しだけ収穫。キッチンで洗いザルに上げたら、予想より遥かに多くて驚いた。たった一本のやや小振りな枇杷の木だけど、このザルの数十倍の実がまだ残っているはずだ。自然の豊かさには、今更ながら驚ろかされる。豊かな自然の中で大量の収穫があれば、余ったものを分かち合うのも自然な成り行き。小山にも、縄文時代の豊さが偲ばれる遺跡(寺野東遺跡)がある。縄文時代は1万年以上も続き、ほとんど争った形跡がないと言う。日本特有の大自然に恵まれて、豊かな収穫があったらしい。さらに人口も少なかった故に、争う必要がなかった。日本独特の風土がもたらした人類史上の奇跡だ。「競争」から「共生」へ、新しい時代を切り開く先駆けは、縄文時代のDNAを受け継ぐ我々日本人に違いないと直感している。
昨年秋からスタートした、三島でのワンデー瞑想会。今回(27日土曜日)の瞑想会は、2日経った今日もとても深い喜びの余韻が続いている。瞑想会に集う人々は毎回違うので、起こる出来事も毎回ユニークだから、単純な比較は出来ない。しかし、瞑想会の後はいつも至福に満たされるけれども、今回はその至福も格別だった。人は瞑想を通して、ただ自己が存在している喜びを知る。そしてそれを分かち合う事で、その喜びは倍増する。今まで長い年月瞑想会を続けられたのも、その喜びを知っているからこそと言える。しかし瞑想会終了後は、毎回深い喜びに包まれながらも・・・「もっとこの事を伝えればよかった、この事は言う必要はなかった」等々、微妙なマインドレベルで反省材料が必ず見つかる。そして、自分のリードの至らなさを毎回痛感する。OSHOやフーマン等々、超一流の覚者の下で瞑想を学んだからこそ気づく、贅沢な悩みだけれども・・・ところが今回、そうした「自分はまだ至らない」と言う感覚が全くなかった。別にキヨタカのリードが、OSHOやフーマンレベルになったわけではない。キヨタカとして学んだ事を真摯に伝えたところ、ありがたい事に参加者がそっくりそれを受け取ってくれた。伝え足りなくもなく、伝え過ぎもない。「与える事」と「受け取る事」の間に過不足がなかった。すると相手の喜びがダイレクトに私に戻ってきて、喜びの円環が起こり、その中でワンネスの至福が起こり、今もそれを味わっている。この感覚を携えたまま、毎日リーラ覚醒フィールドを行い、次回の瞑想会へ繋げたい。次回は、6月24日(土)を予定。皆様の参加をお待ちしています🎶
「この歳になって、身体の調子が絶好調!痛い所が一つもない!!」…と一週間前まで豪語していた。ところが突然降って沸いたように、右上の奥歯が痛くなった。数日我慢していたけど、夜中に目が覚めるほどに痛み出したので、かかりつけの歯医者へ。幸い抗生剤を飲む程ではなく、簡単な処置を施しただけで済んだ。 原因は「親知らず」一番奥にあり、歯磨きがしにくいため虫歯になりやすい。後々トラブルになる場合に備えて、予め抜いてしまう人もかなりいる。以前、「抜いてしまいましょうか?」と歯医者に聞かれて、「抜くのは絶対にイヤです!」と嘆願したことがある。 かかりつけの歯医者さんは、患者への接し方がとても穏やかで親切。今回は、「親知らず」の歯磨き方法を懇切丁寧に教えて頂いた。せっかく親から頂いた歯なのだから、今まで以上に歯の手入れを怠らず、虫歯の痛みを2度と体験しないよう心がけよう。 とは言うものの、痛みは生きている証でもある。痛みがあると、否応なしに、その部分へ気づきが向かう。痛みを通して、普段は眠りこけている気づきが驚くほど活性化する。痛みは命が与えてくれた贈り物なのだ。そう考える事で、今度また痛みに遭遇しても、それを乗り越えられそうだ。
年末年始を実家(栃木県小山市)で過ごし、そこから福島の南会津経由で、妙高高原のクマール山の家に滞在。南会津では、友人のコキーラが旦那様と過ごしている素敵な家に一泊させてもらった。栃木県と福島県の県境は積雪量も多く、雪に強いフォレスターとは言え、それなりの覚悟が必要なドライブ。ところが、今では道路が拡張整備されているので、非常に快適。小山から、わずか2時間半で到着した。到着後、お二人から温かいおもてなしを受けた。真冬の平均最低気温 は-8.4℃、マイナス10度以下(記録は-17℃?)になる事もよくあるとか!しかし暖房対策がしっかりした家なので、伊豆の我が家より暖かく過ごせた。旦那様の従兄がマネージャーをしているご縁で、近所(車で7分)のだいくらスキー場に無料招待。ゲレンデは変化に富み、パウダースノーを満喫!新年の気分も最高潮となった。翌日は南会津を日本海へ向かい海沿いを北上、妙高高原までの長時間ドライブを楽しんだ。山の家に到着後に、さっそくマールから屋根の雪下ろしの手ほどきを受けた。昨年までは、「どうせ春になれば雪が溶けるから、雪下ろしは必要かな〜?」と思い込んでいたけど、今年の夏に 山の家の耐震診断を受けた結果:「降雪時に倒壊の恐れ有り」との事だから、今年は雪下ろし作業に真剣に取り組む覚悟をしている。 雪国の暮らしは大変だ。毎日せっせと雪下ろし作業をしても、春になれば溶けて流れて消え失せる。しかし消え去るからといって、作業を怠る事は出来ない。何だか、人生そのものを彷彿とさせる。どうせ死ぬのに、なんで生きるという大変な作業をしなければならない?そう考え始めると、雪下ろしも人生もしんどい。だから、雪下ろしも人生も素晴らしい体験のチャンスと捉えて、楽しむのがベストだ。
新年明けましておめでとう!年末からず〜っと日本晴れ新しい年を迎えて、とてもリフレッシュした感じ。何がどうという事は殊更なくても、やはりなんだかおめでたい。学生時代は、世の中を斜めに構えて見ていた。「正月と言っても、所詮人間が勝手に決めただけ」「おせち料理や初詣なんかバカみたい」と内心思っていた。だから、一休禅師の門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなしとか、小林一茶のめでたさも 中くらいなり おらが春とかいう歌が好きだった。今でも、初詣もしないし、おせち料理より酵素玄米食の方が好きだけど…玄関にお飾りをして、お正月気分を楽しむくらいにはなれた。ところで、ずっと後になって知った事だけど、一休禅師も小林一茶も晩年まで精力絶倫で、とんでもなく若いパートナーと暮らしていたそう。私が学生時代に勝手に思い描いていた人物像とは、かなりかけ離れていてビックリ。彼らの歌の背景をよくよく吟味してみると…「正月だからめでたい」のではなくて、「毎日がお正月気分という常人では考えられない充実した心境」を味わっていたんだな〜と、今になって、ようやく思い至った。私も彼らを見習って…「毎日がお正月として、お祝いして生きる」事が、新年の抱負だ。
メリークリスマス♫別にクリスチャンではない。でも毎日をお祝いして過ごしたいので、クリスマスはとても良い口実。最近は、お気に入りの喫茶店でコーヒーとケーキを食べてお祝いする事にしている。 だから喫茶タイムに合わせるべく、妙高高原を早朝に出発。でも、豪雪等の渋滞に巻き込まれ、到着は午後4時ごろ。そこで予定をキャンセルして、友人から頂いた「シュトーレン」で代用。手作りのシュトーレンと自分で入れたコーヒーを飲みながら、ほっと一息。 自宅のキッチンから久しぶりに眺めた富士山は、この世のものとは思えない程の神々しさ。久しぶりの我が家なので、「こんなに素晴らしい所に住んでいたのか!」と驚いた。摩訶不思議なご縁と導きがあったお陰で、私は今ここにこうしている。勿体無いくらいの有難さを、しみじみ感じ入る。今まで色々と魅力的な場所へ旅行に行った。でも、こうして戻ってきて我が家でほっと一息した時が最高だな〜。悟りの例えとして、『我が家にくつろぐ』と言う表現がある。その通りなのだが…私の場合、自宅に篭って何もせずただくつろぐのは苦手な方だ。山を見れば山で遊びたくなり、海を見れば海で遊びたくなる。やり残した事がなくなるまで遊び尽くして、ようやく『我が家にくつろぐ』境地になるようだ。
大雪警報が続く新潟県で、雪の降らない妙高高原。今日はなんと雨。…にも関わらず、昨日の太っ腹なゲレンデへ行く。海でいつも濡れているから、雨でも問題はナシ♫ 駐車場で身支度をしていると、誰かが私に話しかけて来た。「同じ伊豆ナンバーのフォレスターですね。伊豆のどちら?」「修善寺です」「そうですか、私は三島から」そんな感じで会話が弾んだ。聞けば、スノボ歴20年、それ以前はスキーにハマっていたとか…話の端々から、相当の腕前である事が分かる。驚いた事に、車中泊をしているという。車中泊はウィンドサーファーならお馴染みだけど、殆どの人はワンボックスカー。しかも海辺は比較的暖かい。極寒の雪山の中で、しかもフォレスターで車中泊するとは想定外。カセット式ガスヒーターを車内に持ち込んでいるから、寒さは凌げると言う。親切にも、バックドアを開けて、念入りに作り込んだ寝台を見せてくれた。なんだか禁断の未知の世界を覗き込んだ感じ。元気な顔をよくよく見ると、そんなに若くはなさそう。失礼を承知で、年齢を聞いてまたビックリなんと、72歳!「100歳のスノーボーダーとしてレージェンドになる」のが私の夢。このお方なら、私と同じ夢を余裕で現実化出来るだろう。本物のレージェンド?に会った気がする。
どう言う訳か、大雪警報の新潟県で雪が降らない妙高高原。その中で、唯一オープンした赤倉観光リゾートスキー場でスノボ修行。積雪量が少なく圧雪車が入れないので、ゲレンデ整備が出来ない。そのせいか、価格も一律2,000円でO.K。元々シニア割引で安くしてもらっているけど、実に有難い。経営者も太っ腹だ。ゴンドラから下界の景色を眺めながら、学生時代に蔵王へスキーに行った思い出が昨日のように蘇ってきた。当時は、悩み多き青春時代のど真ん中。友人が私の事を気にかけて、大自然の中へ連れ出してくれたのだ。リフトに乗って、一面の銀世界に圧倒されながら…「この世にこんな素晴らしい世界があったのか!」と非常に感激した。深刻なはずの悩みが完全に吹き飛んで、頭の中も真っ白!!未体験の解放感で、心身共に痺れた。「スキーを生涯スポーツにしよう!」と、その時は強烈に思ったのだが…何しろ学生時代はお金がなくて、旅費と宿泊費の負担が半端ない。ようやくお金を稼げたサラリーマン時代は、時間がない。脱サラしてからは、インド暮らしが長く続いて、雪とは真逆の方向へ。結局その願いは、叶わなかったはずだったが…それが、巡り巡って、今こうして雪と戯れている自分がいる。スキーへの憧れは、スノーボードにシフトした。多少の違いはあれど、長い年月を経て、ついに「願いは叶った」のである。今日は、上級コースにチャレンジ。急斜面で、非圧雪のボコボコのコブ斜面。3年前にスノボ初心者として初めてこの斜面にチャレンジした時は、全く歯が立たない。本気で、死ぬかと思った。悪戦苦闘虚しく、スノボを担いで歩いて降りるハメに…すぐ脇をスイスイ滑り抜けて行く強者が、神がかって見えた。4シーズン目の今回は、一応下まで無事に滑れるようになった。まだ、神の領域には程遠いけど…スイスイと上級コースを滑りたいと言う願いは、今でも非常に熱い。時間はかかるだろうが…「スノボ界のレージェンド」に俺はなる!
現在、瞑想の個人リトリート(…と言うよりスノーボードリトリート)で妙高高原に滞在中。今朝コンビニに立ち寄ったら、パン棚が空っぽ。「通行止めで配送出来ず、商品が届きません」と、店員さんが済まなそうに頭を下げていた。「新潟は大雪」とのニュースが飛び交っているのだが…どういう訳か、国内有数の豪雪地帯として名高いここ妙高高原だけは殆ど雪がない( ; ; )妙高高原付近のゲレンデも、軒並みオープン延期に追い込まれている。私が滞在している、「クマールの山の家」の庭もご覧の通り。これじゃ、修善寺の雪景色の方がマシかも?昨年は、「山の家」始まって以来の大雪となり、2Fから出入りしていた。雪のない所で育った私は、「1Fが雪で埋まるから2Fから出入りする」と言う話が、おとぎ話にしか聞こえなかった。それを実際に体験出来て、とても感激した。 しかし雪の重みで、屋根が潰れかけてしまった。今年はクマールが、大雪対策として屋根を補強してくれたので、準備は万端。後は、雪が降るのを待つばかり。*信じられないけど、この1Fの赤い屋根が完全に埋まってしまい、てその上の2Fから出入りしていた♫
「想定の法則」と言う、ニューエージ界隈の先駆けとなった願望実現のメソッドがある。いわゆる「引き寄せの法則」の元ネタ。やり方は非常にシンプルで…「望む現実を、あたかも既に実現しているかのように想定する」と言うもの。ネヴィル・ゴダードと言う人物が、世界大恐慌(1929年〜)時代に提唱した。 なかなか面白いテクニックだが、実際にやってみるとこれがとても難しい。例えば、お金に困っている人が、『自分は大金持ちで豊な生活をしている』と、想定してみる。しかしいくら真剣にそうであると想定しても、それを心底思い込むのは至難の業。もちろん、例外もある。カップラーメンをすすりながら、「一流の豪華な中華レストランで食事している」と本気で想定出来る人もいるだろう。しかしそれは相当に妄想癖がある人で、かなりヤバいかも…?特に瞑想を実践している人にとっては、最悪。「今ここ」のリアリティーから、完全に外れてしまう。しかし唯一、「リアリティー」と「想定」が矛盾しないものがある。リアリティーとは、『今ここにある真実」のこと。それは、いつでもアクセス可能だ。気づきも寛ぎも愛も、それは既にここにある。私は、既に真実であり、愛であり、至福であり、自由だ。この、「リアリティー」を「想定の法則」に応用してみよう!例えば、私は既に至福だ。と想定する。すると、至福に満たされてカップラーメンをすする事が出来る。しかも外出する必要もなく、今ここで可能だ。なんと言う豊かさを、我々は与えられているのだろう!この内面の豊かさに感謝して、その充足感に満たされて生きていると…やがて外側も豊かになるに決まっている。
ワンデーイベント参加者のOさんが、さっそくイベントの感想をブログに書いてくれた。Oさんは非常に熱心な探求者。リーラスペースのリトリートやワンデーイベントには、何度も参加されている。リーラの瞑想会に参加するまでは、超体育会系の修行道場で文字通り命を懸けて修行に励んでいたそう。最初にお会いした頃には、「キヨタカさんの瞑想のステージはどのレベルなんですか?」と真剣な表情で聞かれ、返答に窮した。また瞑想に入る時は…毎回、指をポキポキ鳴らして気合いを入れている!正直に言って怖くなり、ビビってしまったあれから、10年近く経過しただろうか?コロナのせいもあり、実際にお会いするのは久しぶり。とてもハートフルで内面が進化している様子が、しばらく会わなかったせいでよくわかり、嬉しかった。リーラスペースの瞑想の特徴の一つは…ハートの扉が内側に開くことで起こる神聖な次元との繋がりこれは、あくまで体験レベルでの伝達であって、言葉では伝えられない。今回、この体験レベルでの深い理解が、彼に起こったようだ。長く瞑想の道を歩み続けた仲間として、喜ばしい限りだ。詳細を知りたい方は、Oさんのブログ『恩寵と共にある』を是非ご一読ください。
12月11日は、OSHOの誕生日!人生は、様々な人々との出逢いにより、精神的成長が加速する。私の人生はとても幸運だ。人生のそれぞれの節目で様々な出逢いが起こり、その都度成長出来た。しかし、その中で一人を選べと言われたら、迷わずにOSHOを選ぶ。 何しろOSHOと出逢ったのが、40年前のお正月。あれからず〜っと、OSHOが心の中にいる。もういい加減、卒業しても良いと思うのだが…いまだにOSHOの講話を聞いて感動してしまう。OSHOを知った時の衝撃は、半端なかった。今までの人生が文字通り、ひっくり返ってしまったのだから…その経緯を書いたら、日誌ではなく本が書けてしまう。(…と言うか、既に『覚者を求めて』を出版した)覚者を求めて旅に出て、本物の覚者に出逢った。しかし本物は、絶えず私に求めるものを投げ返す。 あなたこそがそれだ!
本年最後のリアル瞑想会(ワンデーイベント at 三島)が終了。やはり、実際にリアルの場で集どう瞑想会は、素晴らしい。それぞれの参加者の内面で、新たな気づきと成長が起こっている様子がよく分かる。その現場に立ち会えて、とても嬉しかった。以前は自分の成長にだけ関心が向いていた。しかし、今では自分より相手の成長をサポートする方に喜びがシフトしたようだ。 最近は、長年瞑想の世界に関わっているせいで、瞑想の説明をかなり端折ってしまう傾向がある。いわゆる、「専門のワナ」だ。 そこで今回は初心に帰り、プレゼンスのワークを深掘りする事から始めた。しかしそれだけでは片手落ちなので、ビーイングに寛ぐ瞑想も行った。そしてその両者を統合した、「寛いだ気づき」を味わった。これで瞑想会を終了しても充分だったのだが…過剰サービスの精神を遺憾無く発揮。結局、神聖な次元への扉を開くハートの瞑想を行なって、本日の瞑想会はめでたく終了した。 次回は、1月28日(土)を予定しています。お楽しみに♫
昨晩の満月瞑想会は、沈黙の中で甘露を味わう瞑想を楽しんだ。この『甘露』は、インドでは『アムリッタ』と呼ばれている。私が最初にこの言葉を知ったのは、インドに長期滞在したアパートの女性オーナーのルタから。ルタはサイババの信者で、私の部屋にもサイババの写真が飾ってあった。ルタと親しくなった私は、彼女から散々にサイババの奇跡の話を聞いた。サイババの集会でバジャン(神を賛美する歌)を歌うと、『アムリッタやビブーティ(聖灰)が降り注ぐのよ!』と、非常に知性溢れる彼女の口から、耳を疑うような奇跡話を散々聞かされた。「そんなバカな!」…と、内心で思いつつも、「なんでもありのインドだからそれもありかも?百聞は一見に如かず」と思い立ち、一緒にサイババの集会に参加させて貰った事がある。いかにも伝統的な雰囲気の会場は、しかしそれなりの熱気に溢れている。祭壇の真ん中には、極彩色のガーラントで飾られたサイババの写真が置かれていた。私も信者に混じって、一心不乱に見よう見まねでバジャンを真剣に歌った。しかし待てど暮らせど、アムリッタもビブーティも降り注がない。集会後に、「全然、降り注がなかったよ!」とルタに文句を言ったら…「今日はサイババの調子が悪かったのかも知れないわ」と、なんの屈託もなく笑っていた。それが妙に可笑しくて、なんだかとてもハッピーになった♫ サイババについて、それまではどちらかというとバカにしていたのだが…この集会に参加してからは、サイババとその信者が好きになった。部屋に飾ってあったサイババの写真を毎日眺めながら、今日こそはアムリッタが降り注ぐかも…?と思ったりしたが、とうとう2年半の間、一度も降ってこなかった。今こうしてあの頃の出来事を思い返すと、とてもハートが温かくなる。全ての小さな出来事の一つ一つが、貴重で幸せで満たされた日々だった。どうやらアムリッタは、既に私の頭上に燦々と降り注いでいたようだ。アムリッタを蜂蜜か水飴のように誤解していたせいで、「これこそがそれ」であるのを見過ごしていたようだ。私の知り合いには、サイババが大好きな方が何人かいる。サイババのコミューンに長期滞在したMさんもその一人。数年前に、インド土産としてサイババの小さな写真とビブーティを頂いた。せっかくなので、今でも自宅の2Fの欄間の辺りに飾ってある。 毎朝のダイナミック瞑想の時、ちょうどサイババの写真と向き合ってジャンプすることになる。毎朝気分が良いのは、アムリッタが燦々と降り注いでいるせいなのかも知れない。
本日は、満月。寒空に煌々と輝く満月は、神秘の光を放って美しい。今夜の満月瞑想会では、ナダブラーマ瞑想をして下準備をしてから、「ハートの沈黙」へと誘うサイレンス瞑想を行なった。満月は満たされている事の象徴であり、今ここで満たされている事こそが瞑想の真髄。不安や恐怖や欲望が消え去らないと、満たされないと通常は思う。しかし、それらを一掃しようと頑張れば頑張るほど、満たされる感覚は遠ざかってしまう。逆にどんなネガティブな感情も、それをそっくりハートの中に受け入れると、いつの間にか沈黙の喜びへとシフトする。ハートの沈黙にはスウィートさがあるとフーマンは語っている。そう言えば、ブッダも同じようなことを述べていた。瞑想の味は、最初は苦いが、やがて甘露の味がする
Beloved フレンズ この度、満を持して「瞑想オンライン講座」を開設します。このプログラムを受講する事で、あなたの意識の覚醒は爆速するでしょう!…と言う感じのノリで、新たなオンライン講座の準備を始めた。3年前の事である。 実際に講座用動画もいくつか作成してみた。話の内容はかなり秀逸と今でも自画自賛しているのだが、どうもしっくり来ない。この動画で話しているキヨタカは、ちょっと生真面目過ぎて、別人のような感じ。おまけにITリテラシーが低いため、動画作成に恐ろしいほどの時間がかかる。しかも作成した動画を試しにYouTubeにアップしたところ、背景の音楽が良くなかったらしい。YouTubeから「版権の無断転用」と言う警告が来た。そんなこんなですっかり意気消沈「瞑想を出来るだけ多くの人々に広めよう!」と言う志ざし(野望?)は消滅してしまった。しかしせっかく作成したので、下記に貼り付けておく。没にするのも勿体無いし…三島のワンデーイベントに参加される方は必見です!今は、「あなた」さえ見てくれれば、充分に幸せです。瞑想オンライン講座2www.youtube.com
私の名前は、天野 清貴清貴について昨日書いたので、今日は『天野』について。実は、『天野』は本名ではない。OSHOから貰った名前で、Amanoとはインドの言葉で「「ノーマインド(無心)」と言う意味。今から40年も前の話だ。当時は禅に傾倒していたので、「ノーマインンド(無心)」と言う言葉があまりに平凡に思えて、ピンと来なかった。「要するに、何も考えずに今ここにいればいい。真面目に瞑想すればすぐにノーマインド(無心)になれる」と思い込んでいた。ところが、OSHOの下で長年瞑想に取り組んでも、ノーマインドの境地は遥か彼方…。名前を貰ってちょうど7年経過したある日、「心機一転したいので、新しい名前を貰いたい」と言う趣旨の手紙をOSHOに書いた。その中で、「清貴」の意味も添えておいた。すると、OSHOから思いがけない返事を頂いた。今の名前をキープしなさい。ノーマインドを通して、pure(清い)&noble(貴い)になること、それが私のあなたへのメッセージの全てだ。その時から、ノーマインドが私にとって、一生取り組むべき課題となっている。OSHOによれば:ノーマインドは、その人が持つ力の中で最高の力であり、それを超える力は存在しない。気づき(awareness)は瞑想の始まりであり、ノーマインド(no-mind)はその最終ゴールだ。宝物とは、なかなか手に入らないからこそ、貴重なのであり、探しがいがある。ノーマインド(無心)こそ、瞑想で成就すべき最高の宝なのだ。OSHO: The Power of No-Mind (Preview)While Buddhist traditions speak of mindfulness, Osho has introduced 'No-Mind', a seemingly very strange concept in the contemporary world, don't you think?O...youtu.be
私の名前は「キヨタカ」、漢字で「清貴」と書く。『名は体を表す』と良く言われる。名前に、そのものの本当の姿が現れているそうだ。小学生の時、姓名判断を趣味にしている歯医者さんから、「君の名前は良過ぎるから、名前負けしないよう頑張れ!」と言われた。しかしいくら頑張れと言われても、いまいちピンと来なかった。ところが、高校生の時、たまたま佐藤晴夫のある詩に出逢った。夕づつを見てきよく(清く)かがやかにたかく(貴く)ただひとりになんぢ星のごとく。読んだ瞬間に、「これだ〜!」と目を見開いた。あたかも、天啓を受けたように感じて高揚した。以来、天に輝く星を目指して、名前負けしないよう頑張ったのだが…いくら頑張っても、その輝く星は見つからない。そりゃそうだ。「巨人の星」を目指すのとは、訳が違う。それが今ここにあるものだなんて、あの頃は夢にも思わなかった。しかも、私が消え去って初めて、それとなる。求めないと得られない。しかし求める私は邪魔になる。それが瞑想の深淵なところだ。
グレースと言う言葉の響きが好きだ。私がお世話になったフーマンは、この言葉を好んで使っていた。だから、フーマンとの体験記を出版する際に、「恩寵の扉が開くまで」とした。でも正直にいうと、graceを恩寵と訳してしまうと、何か居心地が悪い。graceと言う言葉に含まれる、神聖さとか優雅さ、の質からちょっとズレてしまう。フーマンから受けたあの感覚は、graceと言う表現が私の中で一番しっくりする。graceの原義は、gratiaで、『感謝』と言うそうだ。自分の人生を振り返ってみると、常識を超えた幸運な出来事が沢山ある。そもそも、リーラスペースは八ヶ岳の『graceful』と言う休業したプチホテルを無料で借受ける事からスタート。 (その経緯は長が〜くなるから割愛)一年後に今の場所へ移ったけど、それからも幸運としか言いようのない出来事が次々と起こった。だから今日が人生最期の日だとしても(…120歳まで生きる予定だけど)、有難うと感謝しながら死ねる気がする。「ようやくこんな事が言える歳になったな〜」と感慨深い。ところで、先日瞑想会参加者の方から藤井風さんの新曲「grace」を紹介されて驚いた。若干25歳にしてこの歌を作詞作曲するなんて、脱帽するしかない。私が25歳の時なんて、社会体制から落ち溺れないようぶら下がる事に必死で、「有難う」とか「感謝」とかは口が裂けても言えなかった。今までの時代とは全く違う「新しい意識の目覚め」を携えた若者が雨後のタケノコの如く登場しつつあるのを改めて再確認出来て嬉しい♫私が感じている「焦燥感」は、あくまでも従来の世界観の中で起こっている出来事を通しての印象だ。その裏側で、gracefulな出来事がどんどん増えている。だから、こうした若者を知る度に、「大いなる安心感」に包まれている。この「大安心の境地」こそ、graceのなせるワザなのだろう。FujiiKaze - grace(Official Video)▼ "grace" digital singlehttps://Fujii-Kaze.lnk.to/graceStarring : Fujii KazeDirector : QQQDirector of Photography : Koretaka KamiikeCamera Assistant : Riku K...youtu.be
焦燥感に近い感覚が、個人的なレベルを超えて世の中全体に漂っている。年末が近づいたから…と言うより、世界全体が終末の断末魔へと突入したのだろう。「このままではどうにもならない、早くなんとかしなくちゃ、でも、でも…?」こうした焦燥感は不快でも、それは意識の目覚めにとってはとても重要なエネルギーだ。 歴代の覚者は、「早く目覚めなさい。すぐ死んじゃうんだよ!」と我々に警鐘を鳴らしている。例えば道元生死事大、無常迅速、光陰惜しむべし、時人を待たず無益の事を行じて徒(いたずら)に時を失うなかれ例えば蓮如されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。人間の儚き事は、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて・・・我が敬愛するOSHOも講話の最後の「ノーマインド瞑想」の中で、毎晩我々を焦らせていた。全生命を賭けなさい!切迫感を抱き、あなたの中心に向かって、早く早く、深く深く、駆け込みなさい!今すぐそうしなかったら、決してそれは起こらない!かつては、あくまで個人レベルの生死の問題だった。しかし今や、世界全体が崩壊しつつある。人類レベルでの生死がリアリティだ。裏を返せば、人類としての集合的覚醒も近づいている。早く目覚めなさい。もうすぐ人類が死んじゃうんだよ!そんな声が、どこからか聞こえてくるようだ。