かろやかに自分を生きる
久しぶりに開催した「2デーズイベント」が無事に終了。参加人数もほど良くて、エネルギーに満ち溢れた素晴らしい瞑想会となった。普段は毎日Zoomを通して、「リーラ覚醒フィールド」で朝晩瞑想をシェアしている。しかし、やはり「リアル」瞑想会は格別だ。IT技術がどれほど発達しても、いや発達するほど「リアル」な体験の価値がさらに際立ってくる。今回は、わざわざ遠方から(長崎、三重、栃木)参加された方もいて、とても嬉しかった。特に、古巣の新宿瞑想会の常連で久しぶり参加さた方の変貌ぶりには、目を見張るものがあった。彼は当時から非常に誠実で熱心な探究者で、既に覚醒体験もあり瞑想やヒーリングも教える立場にあった。しかし、当時は様々な浄化のプロセスの真っ最中で、苦しみの中にいる様子が見て取れた。それでも彼のハートの奥には、明らかに光が灯っているのを感じたため、私は彼を励ます意味でこう語った。「千年の闇も、ローソク一本の光があれば消え去るから大丈夫🙆」と。すると、彼はすかさず返してきた。「そのローソクの光も、フッと一息かければ消えてしまう」と。彼の返答があまりにも切実な感じで、その言葉に返す術を失い、真実を伝えられない無力感に打ちのめされたのを懐かしく思い出す。ところが今回は、シェアリングの場で、彼はこう語った。「このハートの中にある光は、決して消え去ることはない」と。その言葉を堂々と語る彼の目の中には、真実の光が美しく輝いていた。初心者の方に瞑想をシェアするのも、とても楽しい。でも、こうして古参の参加者の変貌ぶりに触れると、リーラの瞑想会が少しでもその助けになれたことがわかり、格別の喜びを感じる。 今回の瞑想会を通して、「瞑想をシェアすることこそが私の天命である!」と、改めて確信した。これもひとえに、皆様が真実を求めて貴重な時間を割いて参加してくれたから。参加者の皆様、本当にありがとうございます。次回のイベントは、1月25日(土)です。またお会いしましょう❤️
永保寺の庭園がとても素晴らしく、これを機に夢想疎石という人物についてもう少し詳しく知りたくなった。そこで、法話集『夢中問答集』のkindle版を購入。日本の精神性を語る上で、禅宗の影響は非常に大きい。禅宗の開祖である栄西や道元を始めとして、無学祖元、大燈国師、一休、白隠等々、多くの優れた禅師が活躍してきた。もちろん夢想疎石も、歴史上非常に重要な人物である事は言うまでもない。しかし今までこの人物への関心はあまりなく、教科書程度の知識しかなかった。天龍寺建立の資金捻出のため日宋(実際は元)貿易を提唱するなど政治的手腕も発揮、なんと歴代の天皇から7度も国師号を賜った人物という史実は知っている。しかし、宗教家というより庭園造営のみならず漢詩や和歌にも優れた総合芸術家というイメージの方が強かった。悟後の修業として20年も乞食に徹した大燈国師や反逆精神のお手本のような一休禅師と比べ、権力者達との関わりも深い。だから歴代の権力者側ににじり寄った「泳ぎ上手な国師(?)」というネガティブなイメージすらあった。 しかし、この本をざっと眺めただけで、それが完全に誤解であった事が良く解った。天皇も将軍も、夢想疎石の高い精神性に感銘を受けて、彼の教えを心から請い願ったのだろう。にじり寄ったのは、実は権力者側の方だった。この本は、当時の最高権力者足利尊氏の弟で副将軍だった足利 直義(ただよし)との質疑応答集。南北朝時代という、激しい権力争いの最中に行われた。直義の問いは真理探求者にとって普遍的とも言える質問が多く、本物の求道者だったことがよくわかる。謀反や裏切りが日常茶飯だった当時の権力闘争の真っ最中で、よくもまあ坐禅に費やす時間があるな〜と関心する。しかし当時は「殺すか殺されるか」が当たり前の時代。生死を賭けた政治世界に身を置いていればこそ、真理探求も命懸けだったのだろう。そして直義の真摯な質問に対して、夢想国師は古今東西の文献のみならず自分の実体験のエピソード等を縦横無尽に織り交ぜ、懇切丁寧に明快に答えている。その質疑応答の臨場感は素晴らしく、それは時代を超え今でも心に響くものがある。国師の口から、真理の言葉が泉の如く溢れ出る様子がよくわかるのだ。 例えば、禅宗では『不立文字 教外別伝』と言いながら、言葉を使っている理由について、とても素晴らしいエピソードを披露している。これは、国師が数名の弟子を従えて、富士の西湖を訪れた時の話だ。国師の言葉が、非常に生き生きとしていて、その光景が目に浮かぶようだ。質疑応答が非常に長いので、一部を抜粋する。 * * *(七六〕教外別伝の玄旨 附゠富士西湖の清興 * * *私が昔、遊山のついでに、同伴の僧七、八人を連れて、富士山の辺りの、西の湖という所に行った。幽邃な神仙境に入ったようで、見るものすべて目を驚かさないというものはない。その湖畔の漁師を雇って舟を漕がせて、入り江入り江に漕ぎ入れて見ると、なんとも珍しい景勝の地である。僧たちも感に堪えず、一同に舷をたたいて、皆々歓声を上げていた。舟を漕ぐ老人は、幼少の時からこの湖畔に住んでいて、朝に夕にこの景色を見ているけれども、その中の清らかな楽しみを味わう気持ちを持たない。僧たちが感嘆するのを見て、問うて言うには、「何事を見て、かようにわめきなさるのか」と。 僧たちは「この山の景色、湖のありさまのおもしろいのを感嘆しているのだ」と答えた。この老人は、いよいよ不審気な顔つきで、「これをご覧になろうとて、わざわざ来られたのですか」と言って、不思議そうな顔をしている。 そこで、私は僧たちに次のように語って聞かせた。もしこの老人がわれわれの興に入った境地を伝授してほしいと言ったら、どうやって彼に教えたらよいか。もしもこの山水の景色を指し示して、われらがおもしろいと思うのは、こういう処にあると言ったら、この老人は、それでは自分が年来見つくしている境界だ、決して珍しくはないと言うであろう。もしまた、その間違った考えを改めさせようとして、われらがおもしろいと思うことは、お前の考えとは変わっていると言えば、それでは西湖の外に、別にすぐれた名所があるので、自分の考えを嫌っているのだと思うであろう。 教外別伝の宗旨もまた、同じようなものだと。 一切衆生のいとなみと変わっているわけでもない、内典(仏書)・外典(漢籍ほか)の言句・義理と異なっているのでもない。けれども、その中に奥深い旨があることを知らない者は、教外別伝というのを聞いて、種々の疑問を起こす。真実は何か特別のものではあり得ない。なんのことはない、日常生活そのものが、悟りの生活たり得る事を、今更ながら再確認する事が出来た。夢想国師に感謝&合掌🙏
朝は、冷え込みが一段と厳しい。窓の外を眺めると、富士山はすっかり雪化粧している。まるで、夏から一気に冬へと移行してしまったようで、「秋はいったいどこへ行ったのだろう?」と思わず問いかけてしまう。日本の美の本質は、四季の移ろいの中にこそある。特に、「もののあわれ」や「わび・さび」の精神は、秋を抜きに語ることはできない。そんな秋の素晴らしさを再発見しようと、遠出のドライブ旅行を楽しんできた。…と言いたいところだが、これは後付けの理由。本当の目的は、岐阜の田舎に隠れた名湯があると聞き、一泊の温泉旅行でのんびり過ごすことだった。 だが、途中で何気なく立ち寄った**永保寺(えいほうじ)**があまりに素晴らしく、結果として日本の美を再発見する旅となった。永保寺は岐阜県多治見市にある臨済宗の寺院で、雲水たちが修行を積む虎渓山専門道場を擁している。観光寺院ではないため、駐車場も無料。しかし、その庭園の美しさは圧巻で、しばし佇むだけで自然の美が直接心に響く。この庭園を作ったのは、あの有名な夢窓疎石。彼は世界遺産にも登録されている天龍寺庭園や、苔寺で有名な西芳寺の庭園で知られ、山梨の恵林寺や鎌倉の瑞泉寺など、日本各地に名園を残している。だから禅仏教に無関心な人も、その名前ぐらいは知っているだろう。禅の教えは「不立文字 教外別伝」真理は文字や言葉を超え、心から心へ直接伝わるものだと言う。だが現実には、禅に関する難解な書物や問答集が山のように存在しているのは、どこか皮肉な話だ。しかし、この庭園に身を置くと、自然と頭の中が静かになっていくのを感じる。そして沈黙の奥深くから湧き上がるハートの喜びが全身に満ち溢れ、言葉では表現しきれない静寂の甘美さに陶酔した。永保寺の庭園は、背景の土岐川や遠くの山々まで含めると、「どこまでが庭園なのか」という区別が曖昧だ。この曖昧さこそが、本当の美の本質を表しているのかもしれない。マインドは何かと区別をつけたがるが、ハートはその区別を取り払ったところから始まる。そういえば、この永保寺の池は「心字池」と呼ばれているそうだ。裏手の丘に登り、池の形を上から確認しようとしたが、いざ登って見ると自然の美しさに圧倒されて、そんなことはどうでもよくなった。夢窓疎石の庭園には、文字では伝わらない真理が700年の時を超えて確かに息づいている。その不思議さを感じた瞬間、畏敬の念が自然と湧き、思わず頭が下がった。
昨日はウィンドサーフィンショップ「ドゥメール」主催の月一回の海岸清掃日だった。日頃お世話になっている海岸を綺麗にすると、心もスッキリして気持ちが良いので、なるべく参加するようにしている。清掃後、仲間内でお茶を飲みながらたわいのない話をしていると、誰かが「そういえば、今日は兵庫県知事選挙の日だね?」と言い出し、話題が斉藤元知事の話に移った。ウィンド仲間とは、ウィンド以外の話題にはあまり深入りしないようにしている。以前、消費税やワクチン問題について熱く語った際、一人だけ浮いてしまった苦い経験がある。それ以来、「海では海の話だけ。余計な話はしない」と決めている。ところが今回は、斉藤氏の「パワハラおねだり疑惑」がいかに捏造されたものか、その裏事情をつい熱く語り始めてしまった。途中で「やり過ぎた」と気づいたが、内側から湧き上がるエネルギーが抑えられず、最後まで話し続けてしまった。最終的に「これはあくまでネットで調べた情報だから、何が本当に正しいのかは分からないんだけど…」と火消しを試みて、その場を何とか収めた。振り返ると、自分がなぜそこまで熱くなったのかが不思議だ。おそらく、大多数に見放されても信念を貫いた斉藤氏と、常軌を逸した行動力で既成勢力の闇を暴こうとする立花氏の姿勢に心を動かされたのだろう。また、マスコミによる世論誘導の酷さへの怒りも湧いてきたのだと思う。しかし、それ以上に感じたのは、この出来事が象徴する「時代の変化」だ。斉藤氏は東大出身のエリート官僚から政治家へ。一方の立花氏は高卒でNHKの闇の仕事を担当、最後はその闇を暴いて追放された型破りな人物でパチプロでもあった。性格も立場も異なる二人が、普通なら決して交わることのない存在であるはずなのに、今回の選挙ではありえない2人の出会いが起こった。この「コラボ現象」は奇跡的と言える。しかし、この2人にはある共通点がある。それが『Majority of One』だ。これは私が大好きなOSHOの言葉で、「たとえ一人であっても真実に立脚していれば、それが宇宙的な視点では大多数である」という意味。この言葉を口にするのは簡単だ。しかし、それを現実社会で体現するのはまったく次元が違う。特に既存の秩序を壊そうとすれば、命の危険すら覚悟しなければならない。今回の出来事は、真実のために命をかける人と、既得権益を守るために奔走する人々やそれに騙された人々、その二つの在り方を鮮明に浮かび上がらせた。これまでは、どんなに真実を叫んでも、個人が圧倒的な大勢力の前に屈し、真実は闇に葬られることがほとんどだった。しかし、インターネットやIT機器の普及によって、特定の個人が声を上げそれをダイレクトに受け取れる時代が到来した。そして今回、「一人の真実が、大衆の嘘を打ち破る」という歴史的な出来事が生まれたのだ。私は、この出来事の背景に、『羊の群れから抜け出し、個として目覚めよ』と促す、大いなる存在の導きを感じずにはいられない。 個人の自由と真実が、大衆に勝利する新たな時代の幕開けを象徴する出来事なのだろう。
晴明塚のパワーストーンのおかげか、足の具合が何となく良くなった気がする。そこで昨日もウィンドサーフィンを楽しむべく、沼津の海へ向かった。しかしウェットスーツに着替えて海に出た途端に、骨折した左足首が痛み出した。最初は「気のせいかな?」と思ってそのまま海に出たが、痛みがずっと続く。 「骨折した箇所がずれたのだろうか?」「それとも足首の靱帯に問題があるのか?」「もしかして骨折じゃなくて、痛風の始まりなのか?」「このまま一生治らないかも?」そんな心配が次々と浮かんで、せっかくの気持ち良い海の上で、マインドがぐるぐる廻りだし止まらない。海ではなく、マインドの波風に翻弄されてしまった。 ところが、陸にあがってャワーを浴びようとウェットスーツを脱いだら、たちどころに痛みが消えてしまった!どうやら、ウェットスーツの足首部分にあるファスナーの金属が、たまたま悪い角度で足首に当たっていたらしい。つまり、足には何の問題もなく、心配事は単なる滑稽なジョークでしかなかった( ; ; ) 人生はジョークに満ちている。「自分を笑える存在になれ!(Be a joke onto Yourself!)」と言うOSHOの名言が思い浮かんだ。自分の問題をあまり深刻に受け止めず、軽やかに、ユーモアをもって自分を楽しむ姿勢を大切にしたい。ここで私の好きなOSHOのジョークを思い出したので、せっかくなので、シェアしよう。一緒に笑って下さい。* * OSHOのジョーク * *ある男がいた。彼の人生には何の問題もなく、幸せに満ちていた。素晴らしい仕事、素晴らしい妻、3人の素晴らしい子供に囲まれて、誰もが彼を羨んでいた。だがある日、目の前に黒い斑点が見え始めた。最初は無視しようとしたが、その斑点はどんどんと大きくなり悪化した。仕方なく眼科医の所へ行ったが、異常は見つからず次に脳神経外科へ。そこでも、さまざまに精密検査をしたが、やはりどこも悪いところは見つからない。ついに脳神経外科医は、彼に宣告した。「原因はわかりませんが、時々こういったケースがあります。何らかの理由で脳に圧力がかかっています」 「そうした患者は、残念ながら半年か一年で寿命が尽きることが多いです」 男は大きなジョックを受けた。そして決断した。「人生がそんなに短いなら、やりたかったことを全部やろう!」彼はおしゃれが大好きだったので、町一番の高級仕立て屋に行き、注文を始めた。「一番高級な英国製スーツ、イタリア製の革靴。それに手製の絹のネクタイ。そして最高級のシャッツを1ダース。首周りは14インチで」仕立て屋は全身のサイズを測りながら言った。「首周りは15インチですよ?」「俺の首周りは14インチで大丈夫だ。大人になってからずっと14インチのものを着こなしていたんだ」「かしこまりました」と仕立て屋は言った。「ですが、それだと目の前に黒い斑点が見えるようになりますよ!」
名古屋への旅のついでに、掛川の『晴明塚』に立ち寄る。ここは知る人ぞ知る、超ローカルな遠州七不思議の一つ。清明塚の神秘にあやかり、パワーストーンをいくつか持ち帰った。伝説によれば、平安時代の陰陽師・安倍晴明が津波避けの祈祷を行った場所とされており、その後、疫病除けの力もあると信じられるようになったそうだ。参拝者は小豆色の石を借り、無事の報告を兼ねて倍にして返すと、返した石がどんな色でも小豆色に変わると伝えられている。これが遠州七不思議の一つとして数えられる所以だ。浜松の友人Aさんの話では、「近所のソバ屋の女将さんが、長年苦しんだ足の痛みがここを訪れて奇跡的に完治した」とのこと。これを聞いて「ここでお願いすれば治る!」と直感が閃いた。実は、2月に怪我した左足がまだ完治していない。ウィンドサーフィンはできるものの、波風が強いと痛みが出る。整形外科医には「完治」と言われてはいる。「正座もできないのに完治ですか?」と問い返すと、「年寄りは正座しない方が膝のために良いから」と返されてにべも無い。年相応に歩けて走れるが、もう一度、強風の中で疾走感を味わいたい。だから今は正座できる左足を目指し、暗中模索している。残念ながら、確信ある治療にはまだ出会えていないが、そんな中でこの清明塚を訪れた。人には「溺れる者は藁ならぬ石をも掴む」と揶揄されそうだ。だが、私は溺れているわけではない。しっかりと石を握り、記念写真を撮った。ここを訪れてから、すでに回復のエネルギーをひしひしと感じている。陰陽道の神秘と瞑想の神秘がここでつながったようだ。瞑想には気づきとしてのプレゼンスと、寛ぎとしてのビーイングという相反するエネルギーが存在する。プレゼンスが陽、ビーイングが陰であることは言うまでもない。この陽と陰が統合されると、とてつもないエネルギーが解放されるのだ。陰陽道もまた、瞑想の隠された神秘と同じ領域にアクセスし、その力で天変地異に対処しようとしていたらしい。残念ながら、安倍晴明のような津波回避の力はまだ発現していない。しかし、内なる感情やマインドの波風には十分対処できるようになっている。内なる陰陽が統合されるに従い、ヒーリングの力も確実に増幅しそれがはっきりと感じられる。新鮮なエネルギーに満ち溢れた、あの感覚だ。ブログを書きながら、すでにイメージの中で、疾風怒濤の大海原を疾走するウィンドサーファーとしての私がいる。その私が、こちらの現象世界に顕現するのは、ただ単に時間の問題だ。Just be patient!私の内面では、既に完治している!この場所を教えてくれたAさんに心から感謝しています。
5年ぶりに、私用で浜松へ向かうドライブの途中、大東温泉に立ち寄った。ここは、ウィンドサーフィンの聖地として有名な「御前崎」近くの温泉施設。全国から超エキスーパートたちが腕を競う「御前崎海岸」より少し西側に位置し、海岸線も長い。だから、例え強風やカレントで流されても、この場所なら比較的安全に岸に辿り着ける。…とはいえ、毎年のように事故が起きる過酷な海で、今振り返ってみると、ウェヴセーリング(波のり)は相当無謀な挑戦だったと思う。施設内には、サーフィンショップもあり、私のようなウェイヴ初心者にも親切にサポートしてくれた。このショップのお陰で、以前はコンディションの良い真冬に何度も御前崎を訪れ、この場所を拠点にして、極寒の強風と荒波の中でウェヴセーリングを楽しんだものだ🎵 スノーボードに夢中になってからは、シーズンが重なるせいですっかり足が遠のいてしまった。しかしここで修行した結果、ウィンドサーフィンの技術が飛躍的に上達、それがスノーボードにも役立った。特にこの温泉施設に併設されていたウィンドサーフィンショップのオーナーYさんには、大変お世話になった。そこでお礼方々、ウィンド仲間が経営する和楽の栗羊羹を手土産にショップを訪れたところ…なんと数ヶ月前にクローズしたとのこと。全く予想していなかったので、残念で仕方ない😢時の流れには逆らえない。形あるのものは必ず消え去り、どんなに素晴らしい場所や大切な出逢いも、やがて時間の中で姿を変えていく。長年お世話になったあのショップも、かつての様々な出来事がただ懐かしい記憶として残るだけとなった。 それでも、すべてが移ろい続けるこの世界の中で、唯一、絶対に変わらないものがある。それこそが、ただ「私が在る(I AM)」という真実だ。何も得るものもなく、失うものもなく、ただ存在しているという感覚だけが、あの時も、その前も、多感な青年時代も、少年時代も、変わらない。すべてが移ろうなかで、「在る」ということが、いかに豊かで、いかに尊いのか。この永遠普遍に、ただ「私が在る(I AM)という真実こそが、「時の翼にのって」いる天使の正体なのだろう。それをはからずも、今回この場所で再認識する事が出来て、感慨深い。
10月のワンデーイベントが無事終了。この瞑想会に限らず、リーラスペースの瞑想会では「意識の目覚め」を3つの次元からアプローチしている。その3つとは、プレゼンス、ビーイング、そしてハートだ。(詳細は「アジズとの対話」を参照して下さい。)この概念を頭で理解することは、それほど難しくはない。だが瞑想を通して体験的に理解することが、何よりも大切だ。なぜなら、本当の自己変容のプロセスは、ただ体験を通して起こるから。リーラスペースの瞑想会は、その体験を深く味わえる場であると自負している。もちろん、こうしたアプローチは一般には広まりにくく、コアな探求者に向けたものだということも理解している。そのため、リーラスペースの瞑想会の参加者は少人数に留まることも多い。「もっと一般向けにアプローチをしたらどうですか?」と言われることもあるが、最近はますますコアな方向へシフトしていると感じている。別にそうしようと意図しているのではないが、自然とそうなってしまう。そんな中で、参加者のYさんから今回の瞑想会の感想をいただいた。その感想を読んで、このワークを必要とされていた方が確かにこの世にいるのだと強く感じた。だからこそ、やはりこのアプローチでいいのだと、確信が深まった。これからも、本当に目覚めを求めている方々と共に、真実の道を歩んでいきたい。Yさんの感想本日はありがとうございました!改めて、感銘を受けた本の著者の方に直接ご指導いただけるなんてなんてしあわせなありがたい時間だったのだろうか、と帰宅しながら感じていました。ご一緒させていただいたお二人の魅力もひしひしと感じました。自分の為に本日のセッションで感じたことをここに記させていただきます。個人的に動的な瞑想のワークをやってこなかったので、体の動と静のコントラストが興味深かったです。発散することをせず、抑圧になるから、オカシなバランスになるんだ。というのも腑に落ちました!(20代で知っていたら…とつい思ってしまいますが笑)今がベストですね😊3つをやっていただけたのも、結果的にとてもとてもありがたかったです!presence(男性性、気づき)とbeing(女性性、寛ぎ)の融合は素晴らしく、、私の中で、どちらも別々に存在していたようでした。なんなら混沌とあるような、引っ張り出せばわかる。くらいの範囲で…しかし、これはpresenceに寛げばいいんですね!!!!そっかーーーーー♡となりました。どっちかを決めるタイミングで使い分けのように選んでいたと思います(無意識)一緒でいいんだという。とてもシンプル。きっといろんな場面で同じようなことを繰り返してますが、改めて認識できたし、奥深く安堵してます。最後のハート瞑想で、ネガティブを吸い込むことをしていたら、魂がシャボン玉のように見えて、同時に本来のお母さんのようなエネルギー(実母ではなく、みんなの母的な)に抱擁されたようで、とても深くうれしくて、ありがたく、涙がでました。この感覚で治療をすること。日常、会話など観察していきたいと思います。本日はありがとうございました。
映画『ベルリン天使の詩』の続編、「時の翼にのって」を観た。『ベルリン天使の詩』ほど有名ではないが、これまた素晴らしい映画だ。前作の出演者の多くが再び登場し、ストーリー展開も前作よりはっきりしている。さらに『刑事コロンボ』のピーター・フォークに加え、元ソビエト大統領のゴルバチェフ本人も登場するシーンもあり、見応え満点。前作では、登場する天使がどちらも中年のしょぼい男性だったが、今回は美人女優のナスターシャ・キンスキーが登場。彼女は神聖で静謐な天使の役を見事に演じ、一目見ただけで「これこそ天使だ」と惚れ惚れしてしまうほどの存在感を放っている。残念ながら時々ストートーリー展開が端折られる場面があり、1回目ではよく理解できなかった。最初は、おそらく上映時間や予算の都合でカットしたのだろうと思った。しかし、監督が敢えてわかりづらくして、もう一度見てみたくなるよう含みを持たせたのかもしれない。監督の策略にハマり(?)、もう一度鑑賞した結果、今度はその素晴らしさがより深く伝わってきた。物語は、時空間を超越した天使と、時空間という物質世界に閉じ込められた人間の視点を交互に描きながら、人間と天使の愛、喜び、苦悩をユーモアを交えなが見事に表現している。人間世界の苦悩の根源には、『時』という謎がある。その謎を解く鍵として、劇中に悪魔が主人公に語りかけるセリフが非常に心に響いた。どんなに感動した言葉も、時間が経つとすぐ忘れてしまう。この人間の忘れっぽさも、この映画の大きなテーマなのだ。そこで、この感動を忘れないためにも、以下に書き留めておこう。悪魔が主人公カシエルに言うセリフ聞こえるか?大事なことを教えよう”時は短い”これが第1の知恵だ 時は 鼬(イタチ)にとっては鼬(イタチ)英雄にとっては英雄娼婦には手管の一つだ君がおとなしいなら時もおとなしい君が急げば滝のごとし君が主人なら時は従者君が犬なら時は君の神我々は時の創造者犠牲者 破壊者なのだ”時は時知らず”第2の知恵だ君が時なんだ カシエル人間にとって、時間は限られている。しかし、やりたいことや、やるべきことは無限にある。 そのため、多くの人が時間を効率よく使おうとIT技術を駆使し、仕事をスピードアップさせていく。 結果として、情報処理能力は向上するが、それに伴い扱う情報量も増え、さらに忙しくなってしまう。この悪循環から抜け出す鍵が、この言葉に秘められている。そして、この鍵を使って開く扉こそが、瞑想の扉なのだろう。
昨日「ベルリン天使の詩」について書いたので、どうしても「Perfect Days」に触れざるを得ない。同じくヴィム・ベンダース監督の映画で、キヨタカの観た映画のベスト5に入る傑作だ。私がまだ子供の頃、映画とは日常を忘れさせ夢の世界へと誘う、庶民にとって唯一の娯楽だった。観客は映画の世界に引き込まれ、日常の苦しみから解放される。ストーリーの面白さこそが映画の王道であり、それを味わう事で苦しい現実から逃避できた。しかし、『Perfect Days』は、そのような従来の映画の手法をまるで無視している。物語の中心は、ただの日常そのもの。主人公は、渋谷区の公園トイレを清掃する中年男性。特に変わったこともなく、淡々とした日常が描かれる。 ドラマや特別な出来事を極限まで削ぎ落とし、まるで禅の修行者の如くルーティーンを繰り返す主人公の様子を、ただ静かに見守る。しかし不思議なことに、見ていて全く退屈しない。いつの間にか「何気ない日常とは、こんなに美しく深みがあるものだったのか!」と、感嘆する自分がいた。 私がこの映画を見たのは3月の中旬、左足首を骨折してまだギプスをしていた時期だ。ほぼ一日中部屋にこもり、ほとんど強制的に何もしない生活を余儀なくされていた。 「何かしたいけど、何も出来ない!食べて糞して寝て起きる、それが人生の現実なのか( ; ; )」と、悲嘆に暮れていた。そんな状況から一歩踏み出すべく色々と模索している時、この映画の存在を知った。「何かヒントが得られるかもしれない」と言う直感が働き、痛む足をかばいつつ松葉杖をつきながら、やっとの思いで映画館に辿りついた。私の直感は、的中した。映画を見終わって家路に着く頃には、既に心がとても軽やかになった。「食べて糞して寝て起きる」だけの療養生活が、とても特別で貴重な体験だと思えるようになった。私にとって、まさにPerfectな映画だった。
久しぶりに自宅で映画「ベルリン天使の詩(うた)」を鑑賞。とても古い映画で、公開は1987年。その大半がモノクロなので、さらに古く見える。実は、20年以上前レンタルビデオで見た記憶がある。確かVHSだったと思う。その時は、途中で鑑賞をギブアップ。「中年の頭のハゲた冴えない男が天使」という設定自体がバカらしく、ストーリー展開も冗長で時々意味不明…そもそも画質音質ともに酷く、見るに耐え難いものだったと記憶している。私の数少ない映画鑑賞の歴史の中で、ワースト3に入る代物だった。ところが半年前に、映画「Perfect Days」を見て、感動。ヴィム・ヴェンダースと言う同じ監督の作品なので、もう一度見てみようという気持ちになった。結論から言うと、非常に魂を揺さぶられた!物語は、「人間を永遠にそっと見守り続けていた天使が、ある日人間の女性に恋をして人間世界に降りてくる」と言う一見陳腐に思えるラヴストーリー。だがハリウッド映画とは別格で、商業主義を超えた品格と趣きがある。物語の背後に、「私は誰か?」「人間とは何か?」 「真剣に生きるとは何か?」等々の深いテーマが描かれている。ストーリー展開の曖昧さ、意味不明なセリフ、冗長な間、モノクロトーン等々が嫌で、以前はギブアップしてしまった。しかし実はこうした独特の表現によって、鑑賞する側に自由な解釈のスペースを与え、内容をとても印象深く濃いものにしている。何よりも、「人間が人間であることの素晴らしさ」を見事に表現している。生きるという事は、大なり小なり、四苦八苦の連続だ。それでも、そんな不完全さを抱えながら生きることに、どれほどの意味と美しさがあるのかを、この映画は教えてくれる。天使としては、すべてを見守り、すべてを理解していた。しかし、透明な存在である彼らには、人間の五感から生じる「喜怒哀楽」がない。だから人間としての「感覚」を求め、苦しみや喜び、愛を経験したいと切に願った。風を感じること、コーヒーを飲むこと、誰かを愛し、愛されること。そうした日常の些細なことが、どれほど大切で、奇跡的なものであるかを、天使の視点から改めて教えられる。そして、人間になった天使が、つぶやくシーンがたまらない。「僕は今知っている どんな凄い天使も知らないことを!」モノクロの映像、曖昧なセリフ、静かで長い間(ま)――これらが生む「空白」は、まるで観る者の心に直接訴えかけるかのような力を持っている。自分自身を見つめ直し、日々の中で当たり前と感じていたことをもう一度大切に感じ、「人間として精一杯生きよう」と言う勇気をもらえる。我々人間とは、本当は天使も羨む存在なのだ。ただ、「真剣に生きる」と言う決断がないが故に、自分の周りに壁を創り、エゴと言う牢獄の中に閉じこもってしまう。映画の中で、終盤のヒロインの独白がいい。途中まで愛の告白だったのに、いつの間にか観客を正面に見据えて「その壁を打ち壊せ!」と「決断」のメッセージを送る。新月は決断の時先のことは分からなくても踏み出さないとね決めるの私たちの決断の時よ私は決めた次はあなたの番だわさあ 決めてチャンスは今しかない「ベルリン天使の詩」は、ただの映画ではなく、自分自身への問いかけであり、忘れかけていた「生きることの奇跡」に気づかせてくれる詩のような作品だ。再鑑賞して本当に良かった。古希まで生きられた今だからこそ、この映画の深みが少し理解できたのかもしれない。人は変わるし、映画の受け取り方も変わる。映画もまた、それぞれの人生のフェーズによって、全く違う色を見せるのだと感じた。人生の古希を、心行くまで謳歌しよう❤️
富士見荘(我が家)の斜面には、「セントラル」の文字型に「ツツジ」が植えられている。ここはもともと、「セントラルアカデミー」という企業の研修施設だった。諸般の事情で、その一部をツツジと共に譲り受けた。今でも航空写真では、「セントラル」の文字が見える。分不相応に庭が広いので、朝のズーム瞑想後は庭の手入れを日課としている。しかし、雨の日はお休み、風が吹けばすぐに海へと出かるので、手入れはさほど行き届かない。今年は特に骨折の影響で、庭仕事が出来ず、荒れ放題となってしまった。ヤマイモやクズや正体不明のツタ類がツツジの全面を覆い、絡み合ったツタ類はなかなか取り除けない。今朝は、晴天で風も弱く、朝から庭仕事に専念。ツタを引き剥がしながら、頑張って植木の茂みをずっと奥へと進んで行く。すると地面の根本から生えているのは、意外にも数本のツタしかないのに驚かされる。最初からその数本を取り除いておけば、こんな苦労は要らなかった!放置していた結果、ツタが複雑に絡まり、なかなか取り除けなくなってしまった。ツタと格闘しながら、絡まったツタがまるで人間のマインドのように見えてきた。複雑に絡み合ったマインドは、ツタと同じく取り除くのは容易ではない。だからこそ、マインドの発達した現代人には、ダイナミックやジベリッシュなどの浄化を伴う瞑想技法が必須なのだ。しかしマインドの根元にさへ辿り着けば、問題はとてもシンプルになる。根を断てば、問題は消え去る。暗闇だと思っていた世界に、光が差し込む。すると「今こここ」が、かけがえのないものとなる。そのための最善の方法が瞑想なのだ。
10月も中旬となり、めっきり寒くなった。またスノーボードの季節がやってくる。「年齢相応に態度を改めて、もう上達は目指さずに、ただ滑れることを楽しもう」暑かった夏の事はすっかり忘れ去り、秋を飛ばして冬に思いを馳せてつつ…買い物に出かけるため、愛車のスバル(フォレスター)に向かった。すると何と、我が家の駐車場の片隅に、「白百合の花」が咲いているではないか!白百合は、この地域ではお盆前後の真夏に花盛りとなる。「随分と遅咲きだな〜!」と、呆れながらも、季節に抗って孤独に花咲く姿に感動。 古希を迎えた自分だが…「あなたもまだまだまだ大丈夫よ🎵」と、何だか、白百合に励まさているような気分。 スーパーへ立ち寄ったら、店舗の前にテントが張ってあって、白百合の花と見紛う若き美女が座っている。看板を見ると、「血管年齢無料測定中、30秒で結果が出ます」とある。某女性専用フィットネスクラブの勧誘らしく、測定器はそのクラブが開発した独自のもの。男性もO.Kとの事で計測してもらったら。何と、血管年齢45と出た。 「素晴らしいですね♡」と褒められ、何だか若返った気分で、ウキウキ。測定ミスでないことを願いつつ、アクセル全開にしたい気分をグッと抑え、年齢相応の慎重なドライブを心がけて、我が家に戻った。
私が好む瞑想の一つに、アティーシャのハート瞑想がある。「ハート瞑想」と名がつくだけあって、技法はおおらか。個人の感性に応じて、まざまなアプローチがある。私自身のやり方は、最初自分自身を受け入れることから始めて、身体の内に秘められたハートの領域を徐々に拡大していくことが好き。肉体から始まり、部屋、家、町、日本、世界、銀河系へと広がり、最終的には『無限大』へと拡大する。しかし、先日、金子みすゞの詩「はちと神さま」を読み、『無限大からゼロ』への『次のステップ』があることを知った。これこそ、「ヴェーダンタ」(Vedanta 7 Steps to Samadhi)の教えの核心ではあるまいか!だから、次のステップは、『0ステップ』ということで、それは既にここにある!アートマン(真我)とブラーフマン(梵我)の関係を巡る、数千年に及ぶヴェーダンタ哲学者達の深遠な議論が・・・このたった一つの詩で、胡散霧消してしまう。金子みすゞに脱帽蜂と神さま蜂はお花のなかに、お花はお庭のなかに、お庭は土塀のなかに、土塀は町のなかに、町は日本のなかに、日本は世界のなかに、世界は神さまのなかに。そうして、そうして、神さまは、小ちゃな蜂の中に。
「究極の真理は、遠方にあるのでもなく、どこか手の届かない場所にあるのでもない。それはまさにあなたのすぐそばにあり、あなた自身より近い。それにもかかわらず、あなたはそれを見逃し続けて、何百万回もの生にわたってそれを見逃し続けている」The ultimate truth is not far away, it is not distant. It is near you, close, closer than you are to yourself, but still you go on missing it, and you have been missing it for millions of lives.先日のブログで紹介したOSHOの講話は、この言葉から始まる。(*マウント・アブのサンセットポイント) 仮に私が瞑想初心者として、マウント・アブの瞑想キャンプで初めてOSHOのこの言葉に触れたら、相当な衝撃があった事は言うまでもない。というのもこの言葉は、私が学生時代に初めて松庵さんという覚者に接した時の体験を思い起こさせるから。実はこの時、OSHOと全く同じ事を言われて、天地がひっくり返るほど驚いたのだ。 当時大学生だった私は、真理とは学問と同じく、長い修行と研鑽の果てに到達する究極のゴールであると信じて疑わなかった。だから、従来の知識を振りかざし、あれやこれやと反論した。しかし松庵さんは、温かく微笑みながら「今、ここにあるからこそ、わからないんですよ」と応じて、私の鋭い舌鋒(?)に全く動じない。そして、「ほらこのお経にも書かれています」と差し出されたのが、白隠禅師の坐禅和讃だった。衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし衆生近きを不知(しらず)して 遠く求むるはかなさよさらに、道元禅師の「普勧坐禅儀」の冒頭の難解な言葉も、全く同じだと言う。原(たず)ぬるにそれ、道本円通(どうもとえんづう)いかでか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。 (そもそも真理とは、どこかに隠されているものではない。 眼に映るすべての存在が、余すことなく真理を表現し尽くしているのであって、修行や悟りなどといった事柄を考える以前に、真理は あたりまえに世界に溢れている。)「しかし、こうしたお経や仏教を沢山勉強して初めて、真理に到達するのでしょう!?」としつこく反論すると…「いや、何十年勉強を続けても、真理は悟れませんよ」「真理は体得するもの。坐禅して呼吸とともに在る事です」「吸って吐くあなたのひと呼吸の中に真理があります。百万巻のお経に書かれてある真理が、あなたのひと呼吸の中にあるのですよ。たった一つのことがわかれば全てが解ります!」と言われて、私の脳天に雷が落ちたような衝撃を味わった。「このまま大学で勉強を続けても意味がない。坐禅で大悟徹底!悟りを開いてから、勉強をし直そう!」そう決意した私は、松庵さんのお寺を後にして大学へ戻った。そして、私を松庵さんに紹介してくれた元禅僧で文学部教授のK先生に、「大学を休学して坐禅修行に専念したい」旨の相談をした。K先生は私の事を非常に心配してくれて、後日、お便りを頂いた。その手紙には非常な達筆でこう書かれていた。「悟りは直ぐ眼の前にあるものでありながら、凡夫には仲々それに気づけず、何か深遠な彼方のもののように考えられがちです。何のことはない、日常坐臥の生活こそが悟りの生活の実際です。迷うことなく毎日の勉強に専念されたら良いと思います。」その言葉もあり、私は普通の企業に就職して、普通のサラリーマンとして「今ここ」の悟りの日常を実践していたのだが…OSHOに出会ったことで、再び真理探究の情熱が蘇り、私は会社を辞め、あれやこれやと探究しまくって、今はこうしてここにいる。我ながら、本当に不思議な人生を歩んでいると思う。
ズームによる朝晩の瞑想会『リーラ覚醒フィールド』が始まって、早くも5年近くが経とうとしている。「まだ続けているのですか?すごいですね!」と、感心してくれる人もいるが…私にとっては、歯磨きのように、朝晩の瞑想は欠かせないライフスタイルとして定着している。定期的に長時間の瞑想会もしているが、通常は朝も夜も30分と短い。だから最小の時間で最大の成果がある瞑想会となるように、試行錯誤を重ねてきた。その結果、朝:『プレゼンスの目覚め』を意図して、「ダイナミック瞑想」「笑いの瞑想」から静寂へ。夜:『ビーイングへの寛ぎ』を意図して、「ジベリッシュ瞑想」「AUM瞑想」から静寂へ。とスタイルが確立。禅から始まり、OSHO、アジズ、フーマン、リー、ジョンといった多くの覚者たちとの瞑想の歩みを経て、ついにここへたどり着いた。 (詳細は、「覚者を求めて」を参照)だから、リーラ・オリジナルの瞑想会だと自負していたのだが…今から50年前の、1974年1月11日の講話で、リーラ覚醒フィールドで行われている瞑想の全てが既に詳細に語られている事が判明!(Vedanta - Seven Steps to Samadhi: Discourses on Akshyu Panishad)ダイナミック瞑想、ジベリッシュ瞑想、笑いの瞑想、AUM瞑想、さらには朝、夜の瞑想の特徴や瞑想探求の心得が、とても丁寧に具体的に詳述されている!これはOSHOがプネーのアシュラムに定着する以前、インド各地を説法しながら行脚していた時代の講話だ。当時、インドの避暑地でOSHO自ら瞑想会を直接リードする事が時々あった。この講話は、OSHOがリードした最後の「9日間の瞑想リトリート」で、インドの避暑地、マウンド・アヴで行われた。瞑想初日なので、初心者にもわかるよう非常に懇切丁寧に瞑想指導をしている様子が、感じ取れる。50年前、インドの山奥で語られた瞑想の真髄が、今、時空を超えて、リーラ覚醒フィールドに伝わっていることに、驚きと感動を禁じ得ない。真理とは、時空を超えて存在しているものだと、改めて実感している。
4日ぶりのウィンドサーフィン。ルンルン🎵気分でに海に出たが、台風の影響らしく風が非常に不安定。突然のブロー(突風)がキツく、足への負荷もかなりあって、また左足が少し痛み始めた。「ヤバい! このまま一生治らないかも…?」との一抹の不安が、頭の中から湧いて来た。そこで家に帰ってから、自分の状況を把握したくて、タロットカードを引いてみた。すると、なんと3枚とも逆位置のスプレッド!どう解釈したものかよく解らなかったので、『Chat GPT』にカードの写真を送信して解釈を依頼した所、下記の回答を得た。「一生治らないかもしれない」という不安に対しては、タロットは「過度な心配をしないように、時間が解決してくれる」というメッセージを持っているように感じます。体を大切にし、焦らずに取り組んでいくことで、回復は進んでいくでしょう。と言う訳で、焦らないことにしよう。それにしても、AIの進化のスピードは驚異的。これからは、AI占いが大繁盛するだろう。せっかくなので、回答の全文を載せておこう。タロットカードの画像を確認しました。3枚とも逆位置で出ていることが気になるかもしれませんが、これは必ずしも悪い意味ではなく、重要なメッセージが込められている可能性があります。1. テーマ (上) - ワンドの4 (逆位置)ワンドの4の逆位置は、今の状況において、リカバリーや回復が順調に進んでいるものの、まだ安定感や安心感が得られていないことを示しています。骨折や怪我が回復してきているにもかかわらず、完全に治ったと感じられないことに対する焦りや不安が反映されています。このカードは、「まだ終わっていないが、進展している」ことを意味し、忍耐を持って今のプロセスを受け入れることが重要だと示唆しています。2. 現状 (左) - 愚者 (逆位置)愚者の逆位置は、再スタートや新たな挑戦への不安や恐れを象徴します。再び運動を始めたことに対して、自分の能力や体の状況に不安を感じている可能性があります。また、怪我からの回復の過程で、無謀になったり過度に慎重になりすぎたりしないようにという警告でもあります。適切なケアをしながら、新たなステップを踏み出すためには慎重に進むべきだというメッセージです。3. アドヴァイス (右) - ワンドの7 (逆位置)ワンドの7の逆位置は、今は戦いを続けるよりも、一時的に降伏し、体の声を聞く必要があることを示唆しています。無理に自己を奮い立たせようとするよりも、もう少し休息やケアを重視して、完全に治癒するための時間を自分に与えるべきだというメッセージです。このカードは、今は自分自身を追い込まずに、自然な回復プロセスに委ねることが大切であることを伝えています。全体的な解釈全体的に、逆位置のカードが示しているのは、「焦らず、自分の体の声を聞き、回復のプロセスにゆっくりと向き合うこと」が重要だということです。今は大きな決断や無理な挑戦をする時期ではなく、ゆっくりと回復していく道のりを尊重することが求められています。「一生治らないかもしれない」という不安に対しては、タロットは「過度な心配をしないように、時間が解決してくれる」というメッセージを持っているように感じます。体を大切にし、焦らずに取り組んでいくことで、回復は進んでいくでしょう。この状況において、リハビリや適切なケアを続けながらも、自分に優しく接し、ポジティブな気持ちを持つことが重要です。
昨日、三島でのワンデーイベント(9月)が無事終了。その夜は、ズームによる午後8時からの定期瞑想会(毎土曜の夜)。さらに今朝は、同じくズームの午前6時からの定期瞑想会(毎日曜の朝)。昨日からずっと瞑想三昧で、今朝はいつにも増して非常にエネルギーに満ち溢れている。(*朝晩、毎日30分の短い瞑想会をしてるが、定期的に長い瞑想会となる)半年前、左足首骨折で全く動けなかった時と比べると、同じ肉体にいるはずなのに、まるで別の肉体に乗り換えたかのように元気が回復して、本当に嬉しい🎵Oshoの「電動チェーンソー」に関するジョークを思い出した。要約するとこうだ。ある男が金物屋で、「7時間で700本の木が切れる」という広告に惹かれ「最新型電動チェーンソー」を購入した。翌日、その男は店に戻り、「一生懸命に頑張ったけど、一本も切れなかったゾ!!」と店員に文句を言った。店員は「いやそんなはずない」と男の働く現場に出向き、デモンストレーションを始めた。チェーンソーのスイッチを入れると、大きな音を立て、瞬く間に木を切り倒してしまった。男は頭を掻きながら、「あれ?何でノコギリから変な音がするだ?」と不思議そうに尋ねた。つまりこの男は、電源を入れずにチェーンソーを使おうとしていたというオチ。これは笑える話だが、私には全く笑えないジョークだ。というのも、実は私も似たような経験をしたことがある。一昨年カインズホームで「超軽量の最新式パワフル電動チェーンソー」なるものを購入した。しかし実際に使ってみると、全く切れない。使い物にならないと憤慨して、返却しようと鼻息を荒くしてカインズホームに戻ったら・・「チェーンの刃の向きがが真逆についてますよ!」と言われてしまった( ; ; )要するに我々の肉体も、電動チェーンソーのようなものだ。ほとんどの人は、電源スイッチを入れる事を知らずに、単なるノコギリとしてこの肉体を使っている。だから、人生は苦労の連続で、やがてクタクタに疲れ果ててしまう。頭で電源スイッチのことは理解しても、実際にスイッチを押さないと状況は変わらない。たとえスイッチを入れたとしても、私のように「刃を真逆に付けたり」していると、やはりノコギリ人生から抜け出せない。この肉体というチェーンソーに、大生命という電源スイッチを入れ、大宇宙のエネルギーに満ち溢れた人生を生きること。それこそが瞑想であり、それをシェアできることが、人生最大の喜びだ。
数日前から、突然気候が秋に変化した!この『突然の変化』は、突然暑くなったり寒くなったりという気候変動に止まらない。突然お米が不足したり、突然物価が上がったり等々、最近様々な場面で頻繁に起こり始めている。いわゆる『コンフォートゾーン』にしがみついているマインドにとって、『突然』の変化=『ネガティブ』と思われがち。しかしポジティブな突然の変化も、実に様々な分野で起きている。 その代表例が、AIの突然の進化だろう!OpenAIが2022年11月30日にChat GPT3.5からまだ2年足らず。しかし、最近のAIの進化は実に驚嘆するものがある。特につい先日、Open AIが発表した、論理・推論能力が可能となった『O−1』モデルには驚いた。マスコミはまだ大騒ぎしてはいないが、実は人類を後戻り不可能な次元へと飛躍させる大きなステップと言えるだろう。機械が自ら考え始め、しかもその能力があっという間に人間のレベルを超え始めたからだ! OpenAIのサム・アルトマンCEOは、「人類はAIがけん引する新時代に入りつつある」とし、「The Intelligence Age」という新しい時代が到来しつつあると最近のブログ・ポストで宣言した。それは単なる人類の文明発達の段階的進化(狩猟→農耕→工業→情報)ではない。人間は、『火』を使える様になって、動物から人間に進化した。今度はAIの進化で、『intelligence』を使える様になり、人間から神へと進化の可能性が現実のものとなり始めた。しかし、いくらAIが進化しても、その使い手の人間が眠りこけていたら、人間から悪魔への悪夢がより現実味を帯びる。だからこそ、瞑想による意識の目覚めが必要という訳だ。そういう訳で、瞑想に興味ある方は、ぜひ参加して下さい。あなたの意識に、『突然の変化』が起こる可能性があります。もし瞑想会に参加して何も起こらなくても、『日々是好日』なのは確実です🎵ワンデーイベントat三島(9月)
最近は殆ど外食はしない。しかも昼食は抜いているが、そのほうが体調がいい。しかし、ずっと以前から気になっていたお店があり、今日は珍しく昼食を食べに出かけた。 場所は、家から車で12分、伊豆の大仁駅付近にある『ぜんな』という玄米レストラン。バリヤフリーで、靴を脱いだら、そのまま素足で入店する。 お店の雰囲気は、玄米レストランらしく木造りで清潔感のある上品な雰囲気。定番のメニューの『ランチプレート』をオーダーしたけれど、地元の無農薬野菜を使った料理は一品一品がとても丁寧に料理されていて、大満足だった。この歳になるまで、怪我はあるけど大病は患った事がない。ストレスのない気ままな生活を送っている事が大きな理由だろうけど、『玄米食』を20年以上継続しているのも、その理由の一つだろう。レストランのオーナーの父親は、玄米を軸とした“食養”により多くの人を治療した医学博士の沼田勇氏という方。父親の意志を継いで、このレストランを始めたそうだ。レストランに隣接した、2階建の博士の住居は「沼田勇記念室」として、予約すれば見学が可能。ちょうどオーナーがおられたので、予約なしで食後に記念室を案内してもらった。医学研究者としての様々な業績の足跡はもちろん、絵画や俳句などの作品も飾られていたが、趣味の領域を遥かに超えているレベルだった。さらに、禅への造詣も非常に深く、海外で有名だった弟子丸 泰仙老師や沢木興道老師と非常に親しい間柄だったそうだ。沢木興道老師は、一時期大仁に住んでおられ、沼田博士の指導で胃潰瘍が全快したとか。また逆に禅では師匠として沼田博士を指導、生涯に渡り大きな影響を及ぼしたという。レストランの名前である、「ぜんな」は漢字では「禅那」であり、ヒンディー語で「ディヤーナ」つまり瞑想や禅定を意味する。玄米食を通した食養道と禅道が、沼田博士の中では不可分のものとなっている様だ。元々は禅を通して瞑想を知った私だが、最近はまた初心にかえり、禅への関心がいっそう深くなりつつある。つい先日も、沢木興道老師の本を読み返して感動していたところだったので、玄米と禅の不思議な縁を感じる。