お盆もアッという間に過ぎ去り、本日は後片付け。

 

例年なら、今日中に伊豆に戻ったりしていたけど…

 

ゆったりとした時間を過ごしたくて、戻る日を少し遅らせることにした。

 

おかげで、昨日の日誌に登場したOSHOの本について、続きを書くゆとりが生まれた🎵

 

 

愛の錬金術

 

私が最初に手に取ったOSHOの本が『TAO 永遠の大河』であることは、昨日書いた。

 

「この人物は危険だ!」

 

そう直感した私は、本を書棚に戻してアパートに帰り、OSHOのことは知らなかったことにしようと思った。

 

しかし、時すでに遅し!

 

頭の中は、『現代の仏陀』OSHOのことばかりで、仕事もロクに手につかない。

 

数日後に、夢遊病者のようにふら〜っと例の書店に立ち寄り、OSHOの本の中では比較的安全そうに思えた書籍を購入。

 

それが、この『愛の錬金術』だった。

 

私が初めて購入した、記念すべきOSHO本である。

 

 

深い謎

 

当時は、スピリチュアルな探究を再開したばかりで、仏教のみならず、他の宗教にも関心があった。

 

特にキリスト教に関しては、座禅で挫折して人生に絶望していた時期に、ドーナン先生というプロテスタントの米国人牧師に助けられた体験がある。

 

それまでは、座禅で悟ることが唯一の道だと信じて疑わなかった。

 

しかし、その道を歩み続けることを断念せざるを得ない状況に追い込まれ、失意のどん底にいた。

 

ところが、ドーナン先生によって、瞑想しなくても救われる道があることを教わった。

 

それが、『神の愛』というものだった。

 

…、というより、ドーナン先生の愛に満ちた誠実な在り方そのものに、私は救われたのだ。

 

そこで、しばらくは聖書に取り組み、教会にも通ってみた。

 

しかし、敬虔なキリスト教徒には申し訳ないが、高尚で奥深い仏教に比べると、どうポジティブに見ても幼稚で、宗教的迷信の匂いが拭えない。

 

にもかかわらず、仏教では救われなかった私が、キリスト教の「愛の道」に、わずかながら「救済の光」を感じたことも否定できない。

 

だから、キリストの教えは、私にとって深い謎だった。

 

 

一挙に氷解

 

その疑問が一挙に氷解したのが、この本だった。

 

それは、簡潔に言えば、私がそれまで聖書を通して理解していたキリストの教えと、OSHOが語るキリストの姿は、まるで違っていたのである。

 

『愛の錬金術』は、『トマスによる福音書』を題材にしたOSHOの講話である。

 

そもそも、トマスによる福音書は新約聖書には収録されていない。

 

初期キリスト教の文書の一つであるが、正典には採用されなかった。

 

その写本は1945年、エジプトで発見された「ナグ・ハマディ文書」の中に含まれており、その後、広く世に知られることになった。

 

『トマスによる福音書』に記載されたキリストの言葉は、内側を探求する瞑想家との相性がとても良い。

 

仏陀もキリストも、結局は同じことを語っているのではないか?

 

私にとっては、キリスト教に対する謎が、明らかになる驚くべき福音書だった。

 

詳細は、ぜひ本書を手に取ってほしいところだが、例えばキリストのこの言葉は、深く私の魂に響いた。

 

イエス、言う

もしあなたを導く人たちが 

『見よ、<王国>は天にある』

と言ったら

そのときには天の鳥たちが

あなたより先に入る

 

もし彼らが

『それは海にある』

と言ったら

そのときには魚たちが

あなたより先に入る

 

しかし <王国>はあなたの内側に在る

そしてそれはあなたの外側に在る

 

 

 

光が見えたなら…

 

仏陀とキリストに共通する真理を見出した私は、非常に嬉しくなり、かつて座禅を指導してくれた松庵さんにこの本を持参して会いに行った。


ところが…

 

「禅が世界最高の教えです。禅を超えるものはありません。その人はインド人ですって?外道に惑わされてはいけません」

 

と、顔を曇らせて私に厳しく説教を始めたのである。

 

あまりにもつれない態度に、

 

「お釈迦さまだってインド人ですよ!」と反論する気力もなかった。

 

それから7年の歳月が経ち、久しぶりに仙台在住のドーナン先生を表敬訪問した。

 

座禅で挫折した私を立ち直らせてくれた先生に感謝し、ついでにOSHOの『愛の錬金術』の原著である『The Mustard Seed』を献呈した。

 

 

ところが、この本を手に取るなり、やはり顔を曇らせて…

 

「トマスによる福音書は、聖書にありませんね?」

 

と言いながら、下を向いて押し黙ってしまったのである。

 

 

私が真理を探求することを喜び、心からサポートしてくれた大切な恩人なのに…、

 

OSHOという名前を持ち出しただけで、全く異なる立場の二人から、同じように頑なに拒否されてしまった。

 

今にして思えば、自分の選択した道が正しいことを、承認してもらおうという、いわゆる承認欲求が無意識のどこかにあったような気がする。

 

しかし、今は違う。

 

自分の中で、光が見えたなら、もうそれで十分だろう。

 

わざわざ眼科に行って、

 

「光が見えるのを証明して下さい」

 

という必要はない。

 

もうどこにも行かなくていい。

 

逆に、どこにいたっていい。

 

実家に滞在しても、今はとても楽しい。

 

そして、誰の承認も必要ない。

 

ただただ、在ることに感謝🙏