感動
最近、OSHOのピタゴラスに関する講話を聴き、深く感動した。
ピタゴラスの教え「黄金詩」を題材とした講話シリーズの最終章で、1979年の1月に行われたものだ。
今から半世紀近く前の講話だが、まるで今日語られたかのように、新鮮で味わい深かった。
真実の言葉は決して色あせない。
そのことを改めて実感した。
動画は非公開なのでここには掲載できないが、幸い、日本語訳が出版されている。
興味のある方は、ぜひご一読下さい。
金太郎飴
瞑想会の参加者から…
「OSHOを知りたいのですが、どの本がお勧めですか?」
と尋ねられることがよくある。
基本的には、どの本から読んでも問題はない。
なぜなら、OSHOの講話を収めた本なら、どの一冊を選んでも、さらにはどのページを開いても、そこに真実の断片が必ず宿っているからだ。
それはちょうど、金太郎飴のようだ。
飴のどの部分を切っても金太郎が顔を出すように、どのページからも真実が顔をのぞかせる。
遠く求めている
さらに私が感動したのは、講話の題材であるピタゴラスの「黄金詩」そのものだった。
その終盤にはは、次のような言葉がある。
……この不幸な人々は、
自らの内に善きものの源を宿しながら、
それを遠くに求めている。
(中略)
神よ、あなたならば、彼らの目を開き、救うことができよう。
だが、そうではない。
誤りを見分け、真理を見いだすのは、
神々の系譜に連なる人間自身なのだ。
自然は、その人々を助ける……。
この言葉は、白隠禅師の「坐禅和讃」とほとんど同じではないか!
衆生(しゆじやう)本來佛なり
水と氷のごとくにて
水をはなれて氷なく
衆生の外に佛なし
衆生近きを不知(しらず)して
遠く求(もとむ)るはかなさよ
(中略)
いはんや自(みづか)ら回向して
直(ぢき)に自性(じしやう)を證すれば
自性即ち無性(むしやう)にて
すでに戯論(けろん)を離れたり
ピタゴラスも白隠も、実は同じことを言っている。
悲しいことに、我々は初めから自分の内側に真実の源泉を宿しながら、それを遠くに求めている。
幸せは未来にあると思い込み、地平線の彼方を追い求めて続けるのだ。
人間とは、何と不幸ではかないものなのだろう。
しかし、我々は神や仏を外側に頼ることなく、自ら真実へと目覚めることができるという。
場所や時代は異なっても、人間の抱える問題は、本質的には同じなのだ。
解決策
そして、その解決策もまた同じなのだ!
本当の幸せは、すでに自分の内側にある。
「いつか理想の自分になれば、幸せになれる」と、地平線を追い続ける心こそが、不安や苦しみを生み出している。
過去や未来にとらわれず、「今、ここ」を生きる。
外に幸せを求める心を静め、自分の内側に初めからある喜びに気づく。
「すること」から「在ること」へ。
それが、まさに瞑想の真髄なのだ。
探し求めていたものは、すでにここにある。
だから、ただその事実に自らの目を開くことだ。


