ピアノソナタ
ベートーヴェンのピアノソナタの素晴らしさに驚いたのは、実家へ向かう長いドライブの最中だった。
あれから、もう2ヶ月近くになるが、いまだにハマり続けている。
第1番から順番に、かなり丁寧に聴き進めて、ついに全32曲を聴き終えた。
どれもこれも傑作揃いで素晴らしい👍
しかし、その中でもやはり、最後の3曲ー第30番、第31番、第32番は別格だった。
総じて、ベートーヴェンの音楽には、聴き手の意識を強烈に音楽そのものへ引き寄せる力がある。
少なくとも私には、モーツアルトの音楽のように、気楽に聴き流すことができない。
音楽が、強い意志を持って聴き手に迫ってくるのだ。
それが、いかにもベートーヴェンらしい特色だと思う。
内側へ向かって
ところが、後期ピアノソナタ、とりわけ最後の3曲になると、音楽の向かう方向が明らかに変わる。
音楽そのものが、どんどん内面の深みへ入って行くように感じられる。
最初に聴いた時、何だかベートーヴェンに置き去りにされたような感覚に陥った。
しかし、何度か聴いているうちに、ハッと気づいた。
置き去りにされたのではない。
実は、私の意識の向かう先が、いつの間にか音楽から、自分自身の内側へとシフトしていたのだ。
つまり、聴き手の意識のベクトルが、
聴き手 → 音楽
から、
音楽 → 聴き手自身の内奥
へと反転していた。
後期ソナタは、音楽を鑑賞するというより、音楽を通して、自分自身の意識の深みへ入っていく体験なのだ。
グルジェフ
このことに気づいたとき、40年以上も昔に観たグルジェフの映画『注目すべき人々との出会い』の一場面が、鮮やかによみがえった。
グルジェフが真理探究の途上で出会った、ジオヴァンニ神父が語るシーンだ。
そこでは、マインドから語られる言葉と、存在(Being)から語られる言葉の違いを示すために、二人の老修道士の話が語られる。
{*映画の音声では、それぞれの修道士の名前は、セツ(Seze)、アル(Akhel)と聞こえる}
修道士セゼ(Brother Seze)
彼の説教はとても雄弁で、まるで「楽園の鳥の歌」のように美しい。
聴き手は彼の話に陶酔し、うっとりと聞き惚れる。
ところが、余韻は早く蒸発し、やがて何も残らなくなる。
修道士アケル(Brother Akhel)
彼の話は朴訥としていて雄弁ではない。
言葉も不明瞭で、その場ではほとんど印象を与えない。
しかし、彼の言葉は聴き手の心の奥へ浸透し、話を聴いた後々まで、聴き手の存在に深い影響を及ぼす。
非常に印象に残るシーンだったが、当時の私は、その意味を十分には理解できなかった。
「存在(Being)」への誘い
あれから会社を辞めて、瞑想と真理の探究をずっと続けてきた。
そして今になって、あの物語の核心を、「意識のベクトル」という視点から、はっきり理解できた気がする。
修道士セゼ(Brother Seze)の場合、聴き手の意識は、語り手とその言葉という「対象」に向かう。
セゼの説教は彼のマインドから発せられ、聴き手のマインドに作用する。
そして聴き手は、強い印象や「知識(Knowledge)」を得る。
しかし修道士アケル(Brother Akhel)の場合は違う。
アケルの言葉は、彼の存在(Being)から直接発せられ、聴き手の存在に作用する。
アケルの言葉に耳を傾けているうちに、聴き手は対象を追うことをやめ、いつの間にか自らの主体へと戻っていく。
そして自己の「存在(Being)」の深みへと落ちていく。
そこから、思考を介さずに直接知ることー「Direct knowing」が生まれるのだ。
ベートーヴェンの後期ピアノソナタは、明らかに修道士アケル(Brother Akhel)の方へシフトしているように、私には感じられる。
音楽が強烈に何かを語り、聴衆を圧倒するのではない。
音楽そのものが、次第に透明になり…
聴き手は、自己の「存在(Being)」へ深く導かれていく。
後期ピアノソナタは、内面を表現した音楽と言うより、聴く者を、自己の内面へ向かわせる音楽なのだ。
ベートーヴェンの後期ピアノソナタは、音楽を通した「存在(Being)」への誘いである。
そう断言しても良いだろう🎵
