レさんのブログ改めジャンク・エッセイ

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活字中毒の方、ヒマ潰してみませんか?

 高校生の頃、とんねるずが流行らせたこの言葉を今でも使ってしまうセンスである。

 

 しかしまあ、ハイティーンの頃のとんねるずといえば絶対的で、やはりその影響は根深くずっくり刺さっている、ということだろう。今は単に匂いというか臭い、いわゆる臭気のことで、これを業界用語(おそらく完全に死語)的に逆さまにすることによって、なんというか臭さを強調したもの、と考えているのだけれど、どうだろうか。

 

 においといえば、この前ウチの長男が僕のことを「変なところで無駄に嗅覚がいい」と喋っていた。

 なんのことかといえば、これから流行りそうなマンガに先鞭をつける能力(大げさだな)だそうである。あーそういうことか。『鬼滅の刃』もそうだった。最初に書店で見つけた時は、まず舞台設定が江戸でも明治でもなく大正、ということや鬼が出るマンガでしかも少年誌なのに人物の瞳が全て少女漫画(風に見えた)、そしてこれはもう今では当たり前になっているけれど、鬼になった人物がなぜ鬼になったのか、を丁寧に描いていて、おもしろそうだな、と思い集め始めたら、アニメ化、それからはご存じのとおり世界的ヒット作となった。確か『炎炎ノ消防隊』もそうだった。災害マンガかと思いきや宗教まで絡んだ異能力バトルもので、なんか面白そう、と思ったらアニメ化された。藤田和日郎さんの作品に至っては、『うしおととら』以降、ほとんどの作品は読んでいるけれど、まあ売れてます。最近だと『呪術廻戦』か。呪術というから時は平安か明治で陰陽師が活躍する時代ホラーものかと思いきや、舞台は現代。そこに惹かれて集め出したらこれまた大ヒットである。なんだかなあ。

 

 特に「これ売れそうだ」とか「次はこれがくる」みたいな感じで作品をチョイスしているわけではもちろんなくて、あえていうなら「異質さ」だろうと思う。あるいはミスマッチ感というか。とにかく「これ、こんなんでよーやるなあ」と思える作品にどうも惹かれてしまうらしい。あ、あとアレだ。絵に妙な粗さがある作品にも惹かれてしまう。藤田和日郎さんなんかアレですよ、おそらく今でもPC使わないから、もう線の一本いっぽんに魂が篭りまくり。それは吾峠さんにしても芥見さんにしてもそうで、線に妙に生々しい迫力があってそこに惹かれているのかもしれない。大久保さんなんかも独特で線は綺麗なんだけど迫力がある。まーいうても、そんな僕みたいな人間は当然いるだろうし、もっとすごい御仁もいる。

 

 そんなことで言うなら、30代の頃、今はもう無い福岡市東区箱崎の場末の本屋でなんの予備知識もなく、つげ義春のの単行本を「なんかこれいい」と思って引っこ抜いたことくらいだ、自慢できることなんて。

 思えば不遜な若者だったと今になって思う。

 まあ10代から20代、果ては30代に至っても理不尽な由無し事に対して、腹が据えかねると露骨に顔に出ていたし、場合によっては口腔という銃口に直情という弾丸を込めてバラ撒いたことも多々。結果は推し並べてみっともなく討死だったけど。

 

 気に食わないことは気に食わないし、納得できないことは納得できない。とはいえ、いい年をした大人が、先述のようなことをやらかして許される筈もない。討死といったって本当に死ぬわけではないのだから、討死んで良かったといえばよかったのだろう。これも学習。

 

 そんなこんなで、今でも僕の見えない場所には銃槍や切り傷が無数にある。それの中には時間が経つにつれて痛みが増してくるものもあって、これは如何ともし難いな、と思い出したのが四十を過ぎた頃だろうか。とにかく食ってかかれば、新しい傷が増え、それにつられて、古傷までも痛む。そこで僕の克己心みたいなものの呟きが聴こえた(気がした)

 

 お前、このままだったら取り返しがつかんことになるぞ。

 

 そんな声が身体のずっと奥、肉体や脳髄の深淵から聴こえるようになった。

 

 では、どういなしてゆけばいいのか。

 

 そこでこう考えた。対峙する人や事象にも意味があって自分に凶刃を向けているのであって、そこに思いを巡らせつつ耐えて、あらぬ方向に捌いてしまおうと。で、足らぬ頭を逡巡させた結果、がらんどうの胸と頭にこんな言葉を配置してみた。

 

 そーいうこともある、

 

 これが効いたのか、最近は大抵の凶刃や凶弾をいなせるようになれたのである。いや、なかなかに良い。まず、気持ちに余裕ができたし、身体も軽い。おまけに酒も旨くなった。良いことずくめだ。

 

 とはいえ、傷は付くのであって、これが限界に達した時に自分はどうすれば良いのか。玉砕。うーん、それは嫌だ。痛いし。

 

 

 ここ最近、つれあいが録画しておいた山田太一さんのドラマを観ている。タイトルは『高原へいらっしゃい』という。

 故・田宮二郎さんが、まあいろいろあって打ち捨てられた高原にあるホテル(というか見た目はロッジなのだけど)を、予算300万円と、自分の目利きで選抜したスタッフたちで再建させる、というドラマだ。

 

 僕にとって山田太一さんというと、『ふぞろいの林檎たち』だ。当時中学生だったけど、金曜の夜10時は必ずテレビの前にいた。だから、山田太一さんというとあの独特の台詞と世界観がずっと頭の中にあったのだけど、『高原へいらっしゃい』は、独特な世界観(なにしろh八ヶ岳の打ち捨てられるような場所にあるホテルだ)は健在だけど、あの独特の台詞は、あまり聴けない。しかし、メイン・キャラクターはしっかり描かれていて、もうグイグイと引き込まれてしまう。

 

 まず何と言っても、田宮二郎さんである。ザ・昭和の二枚目(死語)代表である。とにかくこの時代の「カッコいい」を体現していて、ホテルの支配人の役なので、タキシードを着ていることが多いのだが、まあジェームズ・ボンドである。ロジャー・ムーアの頃のね。けれん味にみちた芝居は、さすがの一言。そのお目付け役の前田吟さんも、これまた良い。前田吟さんといえば『寅さんシリーズ』のひろしだけど、ひろしが寅さんに向かって切々と訴えるシーンの10倍増しのテンションで田宮二郎さんにいちいち食ってかかる。しかも、田宮さんも前田さんも毎回すごい長台詞で、もう感動するやら呆れる(良い意味で、ね)やらである。他にも弓かおるさんや、池波志乃さん、益田喜頓さんなどが脇を固める。この時すでに大ベテランである増田さんの含蓄のある台詞やアクションも今作の見どころの一つ。

 

 物語の中で当時の東京の描写が映されるのだけど、「あの頃の昭和」が見れる。1976年だから僕が小学校1年、7才の頃である。あちこちで煙草は吸えるわ、車の運転は荒いわ。今の子供に見せたら「これどこの国?」と尋ねられるよね、絶対。粗野でゴミゴミしていて、それでも活気に満ち溢れていたころ。若者はアパートに3人でごろ寝。食べるのは即席ラーメンである。おそらくカップヌードルが爆発的に売れた頃だ。みんな透明のフォークで食べてたね。

 

 次で最終回である。このドラマは『岸辺のアルバム』前述の『ふぞろいの林檎たち』みたいな影のある終わり方は嫌だなあ、と思っている。多分そうはならない、と思う。八ヶ岳とか行ってみたいなあ。あのホテルはまだあるのだろうか。