レさんのブログ改めジャンク・エッセイ

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活字中毒の方、ヒマ潰してみませんか?

 晴れた日が続くと太陽に温められた海水が蒸発して、天上に昇華してうんたらかんたら。

 という雨が降るメカニズム、ね。これが、ここ数ヶ月規則的に行われている当地・福岡である。

 

 彼の地から飛来する砂塵のせいで、晴れているやら曇っているやらという空模様。晴れても花曇り。油山はけぶってしまって。気温は着実に上昇して、確実に来るであろう豪暑の予感。季節は進む。桜も散った。

 

 前回は正月に書いているので、もう4ヶ月も経った。

 しかし、今年の冬のやる気のなさといったら無かったね。キン、というかピンというか。張りつめた冬の朝なんてあったのだろうか、と思ってしまうほどである。寒いのは、もちろん嫌なのだけれど、やはり無いなら無いでそれも豪腹で、なんだかズルズルと、ストーナーロックのリフみたいに冬が南進していってしまった。

 

 宵の雨が止んでしまったぬめったアスファルトを見ながら、「ああ、イカンなあ」と思いながら煙草に火をつけた。

 電子たばこの煙と紙煙草のケムリは、確実に違っていて、それを紫煙と、逆さまに構えたストラトをかき鳴らす人が歌っていたなあ。

 

 ゆるゆると春もゆく。やれん。

 

 最後に文章を書いたのが、去年の11月26日である。

 その間忙しかったのか、と問われると「まあ、忙しくはあったのだけれど想定内で」ということになるのだろう。年の瀬が忙しいのは、毎年のことだし。そこでイレギュラーな「何か」に見舞われたわけでもない。毎年と同じようなことーとは言え当然のことながらまったく同じ、ということもなくー12月が過ぎていった。

 

 前の文章でも書いたのだが、飼っていた猫のちゃまるが他界した。とても悲しかった。ありえないくらいに落涙もした。

 そのことを思えば去年は、僕にとって大きな節目となった。ちゃまるが旅立ったことで、僕の中にあった「よきもの」がほんの少し減った気がする。そのかわりに何か奇妙な「すきま」が生まれた。

 最初、その「すきま」に僕は気がつかなかった。しかしそれは日毎に大きくなり、12月の半ばには確実に知覚できるまでになっていた。それは未だに続いていて、僕はなんとなく釈然としない「日曜日の夕方の霧雨」みたいな日々を過ごしている。

 

 そのせいかは知らないが、転倒して指を捻挫してしまった。「すわ骨折か」と思ったが骨に異常はないらしい(現時点で)。しかし僕の指は、ヘソを曲げたミミズのように腫れがって変色してしまっているのだ。

 なんとも、おわっているような年のはじまりである。やれん。

 冷やしい空気を布団の外に感じた。半覚醒のなかスマートフォンのアラーム。そこで気が付くのだ。今日は日曜だったのだと。

 昨夜も地元の友たちと酔生夢死。

 冬のさめざめとした空気は苦にならないたちである。7時30分。せんべい布団に自分の空洞を残して、日曜日が始まった。

 

 久しぶりの自由な1日である。自分の湿度で重くなったシーツを引き剥がして洗濯機に放り込むと、敷布団をベランダに干した。これもまた年季の入った布団である。自分の寝ていた部分は凹んでしまっている。11月の乾いた日差しと風でも、おそらく戻らない。

 

 太陽は中天を通過して、窓からは冬の午後の日差しの奔流である。部屋の中の放置された洗濯物、テレビのリモコン、百円ライター、他にも床にあるもの全てに濃い影が宿る。梶井基次郎が『冬の日』の中で書いていたような巨大な(コロッサールな)悲しみを浮かべた影。その中には病で臥せっている、末娘の猫・ちゃまるの影もあるのだった。

 

 僕たちは、いつでも連続する選択に翻弄されてゆく。自らで選んだその道を悔やむことなかれ。とはいえ、迷いはいつでも付き従う影である。お前には触れることはもうできないけど。

 

 宵闇が覆う部屋には、彼女の金色の毛がばらまかれていた。これからも僕は、こんなふとした冬の午後にお前を思い出すだろう。

 また、いつか。虹の彼方で。オーヴァー・ザ・レインボウ。