原理主義というか、基本に忠実、プレない生き方をしている人って凄いな、と思う。
例えば、報告、連絡、相談をセオリーにしたがってきっちり行うひと、食べ物は賞味期限及び消費期限を守って腐らせないひと、集合時間を守るひと、無駄遣いをしないひと、などなどなど。
そんなもん当たり前でしょ、って思う人。では、そのブレなさを主張し喧伝する時にどうしますか。
手前勝手にセオリーというか規範ね、これをこなす。自己完結。それはまあ良い。対象は自分なのでね。では、これをどうやってひとに伝えるか、ということだけど、これが僕は凄ぅく苦手である。
くだらぬ知識だけは無駄に蓄えているので、ことばを尽くして伝えるも、他人様からはやれ抜けがある、詰めが甘い、日付を過ぎた物を食べるなんて外道、ミスタッチ、手数料はなるべく控えろと言うのにこの散財漢が、トイレの電気を消さぬのは何回目だ、なぜ上手く笑えないのだ、云々。
なんだか世間がホワイト感していくにつれて、真っ当であることが当たり前になっていて、何かと余裕とか余白が削られている気分が。世知辛いというか。
「当たり前でしょ。キチンとできないひとはダメなのよぅ。この先が無くなるのよぅ」
いやしかし。待て待て。
ここに一つメールを出してみようかな。
ビール飲み放題焼肉うまうま大会の件だが、出席できません。
その日は身内が腸捻転起こしたので見舞いに行きますので。
また、以前からバンドを組もうと言われてましたが、ベースは借金のカタに質入れしたので無理です。
それでは失礼します。あ、あとこの間の資料、作り直してください。
言いたい事はそれだけかそうか。
確かに自分の事は伝えてはいる。しかし、当の『ビール飲み放題焼肉うまうま大会』を主催した人間へのリスペクトが微塵も感じられん。そりゃバンドには誘ったさ、参加できんのも分かったさ、資料?いや意味がわからん。でも、でもでも。
余白というか余裕があれば、この立板に水、ざっくり撫で斬りの文書に申し訳なさというか、謙虚な気持ちを通奏音のように流せるのではないのだろうか。ひととひとの付き合い、袖擦り合うも何とやらだ、縁というものを軽んじるべきじゃあない。僕なんかその余白、余裕がありすぎて相手に気を遣った結果、舐められる、アホ扱いされる、奇人扱いされるなどの不利益を被ってはいるが。
まあ何にしても実利中心、コストパフォーマンス重視ばかりじゃあ、悲しいじゃあないか。なんて言うと老害とか。あぱあぱ。
長男が就職して家を出たので、現在家移り、いや部屋移りをしている。長男の部屋に僕が入り、次男が僕の部屋へ入る。本当は面倒だったのだけれど、つれあいと次男に押されて、仕方なくやっている。
僕は多趣味でなおかつ物が捨てられない癖があるので、ほとんどが本とCDなのだが、なかなかの物量だ。それに加えてエレキギターが4台にエレキベースが2台、フィギュアもある。あんた、本当に酷いねとつれあいにため息をつかれ、次男は、わあ、色々あるねぇ.と呆れらる始末。仕方がないやん。興味があれば手元に置きたいのだ。有限であるフトコロと睨み合いながらだけど。
色々整理しているとマンガ『あさドラ』が2巻まで出てきた。『風、薫る』の方じゃもちろんなくて、浦沢直樹さんの漫画だ。浦沢さんの作品はそんなに読まない。『21世紀少年』は全巻集めて篭もりたい。現にこの作品以外は『夢印』という短編があるだけ。なんといっても浦沢さんの絵が好きで、眺めていると炊き立てのご飯みたいなほっこり感がある。手書きとタブレットの境界線は時代が進むごとに曖昧になってゆくけれど、個人的にはやっぱり手書き派である。
で、あさというか朝。
40代の頃、48グループのイベントで、東京に遠征したことがある。宿はSNSで知り合った友人宅である。イベント後にいっぱい、というか多杯の酒やもろもろをやっつけて、友人宅に辿り着き、ひっくり返る。僕はヨギボで寝る。6枚のモニターをくっつけて大モニターにした画面には、乃木坂46のライブが流しっぱなしにしてある。多分四期生が入る前のライブだった。自宅ではなかなか無いシチュエーションである。薄くもやがかかった頭の中に彼女たちの声が掻き回して覚醒を促している。ステージの照明、歌声、完成、揺れるサイリウムそんなもろもろが、ゆるゆるとミキサーのようにもやを掻き回して、水あめ」みたいにからめとろうとする。
どうにも眠れなくて、煙草を吸おうとおもてに出ると深夜だと思っていたのに、ほのかに明るい。東京の朝は福岡の朝よりも速く訪れるのである。何だか厳かな気持ちでクール5ミリを吸ったのだった。
その友人と近々会うかも知れない。場所は高松である。高松の朝も、気になるな。
って、死出の旅路へってはいけないのが辛いところ。極論自死ってのはあるんだけれど、まああまりよろしくないわな。
とかく死というものを人は敬遠する。確かに不意の事故や望まない疾病による死であれば悲壮感はある。確かに。とはいえ、そんな因果をものともせず自ら死を選ぶひとたちもいる、という事実。
某国営放送だったかな、とにかくテレビで観た。日本では許されていない安楽死に伴うお話、安楽死を自ら選ぶひとたちのドキュメンタリーである。詳しい内容は朧げだが、不治の病にかかって先には辛い投薬治療が待っている。それは何より苦痛を伴うし容姿だって変わってしまう。そこで考えに考えを重ねた末に、ひとは安楽死にたどり着いてゆく。
このドキュメンタリーを見ていて、熟考した末に尊厳に基づく死を選ぶ人びとのほとんどが清々しい表情を浮かべていたのが印相的だった。最初は清しい諦観だな、と思っていたけれど、徐々にその思いは覆されてゆく。そのひとたちがたどり着いて行くのは、尊厳を持って未知の領域に挑むかような希望に満ちた船出であったのだ。
僕は幸いそんな岐路に立ったことはない。しかし、死に向かってゆく決意のひとを思い出すにつけ、死とは真に忌むべきものか、と考えてしまった。
いずれ死ぬ。しかも苦しみを経て痛みに至り、容姿も著しく変貌してゆくような人生が確定でやってくるならば、まだ生命力が躍動し、楽しくまた美しく日々を送っているうちに旅立つ、というのも間違いでは無い、と思えてきたのだ。
不謹慎な言い方をさせてもらえれば、今が幸せの絶頂、家も建てた。子、孫にも恵まれた。つれあいはまだ美しいし、財産もまあある。社会的に見てもそこそこに幸せだ、もう十分だ腹いっぱいだげっぷが出るぜ。じゃ、ここらでドロンします。老いや病に苛まれたくないのでね…
なんて消えてしまうって御仁も少なからずいるような気がしてならない。まあ日本ではダメだけれどね。
死とは終わりではない。必ずその先があるのだ。僕はそれを疑いもなく信じているし、天国にはいけないけれど、まあ中つ国ぐらいには行けるんじゃ無いかな。
つらつらと、そう考えてみた。自宅の下には桜の花びら、そうして役割を終え血の色に染まった、がくがあるだけ。安らかに旅だだちの日が在らんことを。