続き。

 

 名作「ラテン語問題」(秋田訳は「晩い初恋」 ネタバレだよ・・)

 ピグダン先生が女性におそるおそる尋ねる。

太田訳(光文社版) 

 「で、お返事をいただけるんでしょうか?」

 「そう仰っても、返事のしようがありません」

 ピグダンはことばに詰まりながら、なおも訊いた。(p27)

秋田訳(改造社版)

 「あんたはその返事をしてくださるかな?」

 「さういふことには改つて返事はしないものですわ」

 感動のあまり彼は息を切つてゐた。そして、また云つた。(p147)

 

 新訳だと相手が返事を避けている理由が分からない。それからピグダンがただ緊張して口ごもっているように読める。

 秋田訳だと、その話題を出すには唐突過ぎで、しかもピグダン自身の口から気持ちをまだ聞いていないと相手が軽くたしなめ、そのことをピグダンも理解しているように読めるのがいい。

 

 

 

 探していた”本物の”「墓」

 

 若干ネタバレになるかも

榊原訳(福武版)

 彼女の肉体、生き生きとして暖かい彼女の肉体、あれほど柔らかく、あれほど白く、あれほど美しかった肉体(p193)

 

 嘔き気を催すような臭気、おぞましい腐敗の匂い(略)

 (略)彼女の口からは真黒い液体が流れ出ていました(p193-194)

秋田訳

 彼女の肉體、あのみづみづしてゐた、温ッたかな、あんなに柔らかく、あんなに白くあんなに美しかった肉體(p108)

 

 厭なにほひ、腐敗したものが發散する悪氣(略)

 (略)黒いしるのやうなものが一條、その口から流れてをりました。(p162)

 

 榊原訳で違和感があったのは、クールバタイユ氏の愛情が足りないように思ったこと。

 読み比べて分かった。

 

 「生き生き」だと健康的すぎる。「瑞々しい」のほうがエロティック。

 「あれほど」と「あんなに」は”程度”を意味する点で同じだけれど、「あれ」という言葉が入ると客観化しているというか、距離を感じてしまう(私だけかもしれない)

 

 ところで「あれほど」は能力とか力には使うと思うが(「あれほどの才能」「あれほどの能力があれば」)、人柄とか性格のようなものには「あんなに」を使うのではないか(「あんなに優しい人はいない」。「あれほど優しい人はいない」ってなんか変では?そう感じるのは私だけか?)。

 

 あと、いくらなんでも「嘔き気」「おぞましい」は無い。

 たぶんNauséeが原文だと思うが、辞書の冒頭にある「吐き気」でなく「不快」の意味を秋田訳はとったのだと思う。

 「おぞましい」は、「悪気」と遠回しな表現になっている。

 こういうところで、あれ?あれ?となるのである。

 

 秋田訳は愛情をより感じる分、「しるのようなもの」という文章が効いていると思う。

 初めて読んだときにゾッとした理由の一つがこれだったのかも。「ようなもの」って何?と。

 

 最後。

 これは誤訳に近いと思う。

 冒頭近くにある一文なので、福武で読んだ時、「あれ?」となって、そのまま最後まで引っかかてしまった。

榊原訳

 わたしが初めて彼女に会った時(略)まるで生暖かい湯の中に漬かったみたいな心地でした。(p189)

秋田訳

 わたくしは、初対面のをりに、彼女を見ますと(略)ちゃうど湯加減のよい浴槽のなかにでも浸っているゐるやうな、ここちよい、しみじみとした幸福感でありました。(p99)

 ・・・え?生暖かい?

 そ、それは誉め言葉ですか??

 なんだか、ぬるそうだし。「生暖かい目で見る」は悪口だし。

 

 秋田訳はクールバタイユ氏の幸福感が皮膚感覚で伝わってくる。

 「しみじみ」も効いている。

 

 

 いやいや、翻訳って面白い(その2)