中盤から急激に面白くなる。

 

 似ているが微妙に異なる二人の人物が登場する。

 

 己の支えの無さを信仰に求めるムーレ神父。

 信仰を”利用”して己の攻撃性を発散するアルシャンジア修道士。

 

 合理性が冷酷さにつながるジャンベルナ氏。

 合理性が人道性につながるパスカル博士(第20巻の主人公!)

 

 生命力豊かで知性と無縁、可愛がっている豚を無邪気に解体して食べてしまうデジレ。性とも無縁(とわざわざ書かれているp78)

 生命力豊かで美しく、知性と優雅さを兼ね備えたアルビーヌ。

 

ゾラのつくった家系図だとかこったところにムーレ兄妹がいる(ナナと同世代)

 

 誰が読んでもエデンの園のアルビーヌが住んでいる場所:パラデュー、スペルがわからないが、Paradiseでもあるし、Para-Dieuなら”神のちかく”のニュアンス。

 

 ゾラのキリスト教観がわかるのが第一部と第三部。

 ムーレ神父は自然を忌避(「自然を呪わしいものと考えている」p29)し、自分の肉体も「醜く、汚辱にまわれ、悪臭を発し」ていると感じる(p41)

 神父になり自分が「女性化」されて「男臭さが洗い流され」たと満足感を抱く(p138)

 

 第二部。

 大病したムーレはアルビーヌに看病される。

 目覚めたムーレは記憶を失って”男”として再生し、2人は子供のように戯れる。

 しかし「蛇」のような川を通り過ぎ、「3本」の柳がある所で「3つ」のパンを食べ「3つ」の川で遊んだ後に変化が訪れる(ご丁寧に3が3回出てくる p216ー243 庭園でサクランボも食べている)

 若く美しい2人の間で徐々に高まる性的欲望。

 ここから俄然面白くなる。

 

 何の知識もない男女が己の性的欲望をどう感じるかなど、文明化されて以後、誰もわからない。

 ここはゾラの筆力にかかっている。

 二人は理由の分からない苦痛に戸惑うことになっていて、歯がゆさが読んでいて凄い!

 

 二人は結ばれるが(羞恥心も芽生える)、庭園の端(エデンの東!)でムーレは記憶を取り戻す。

 

 

 第三部は、罪にもがき苦しむムーレ神父の壮絶な心理描写が中心。

 宗教的思考はいつの間にかアルビーヌの美しい裸体や逢瀬の記憶と混交し、堂々巡りする。

 

 この辺り、我々的には「連合弛緩」のお手本。

 時制などが曖昧な日本語でこれだから、時制、数が厳密で名詞・形容詞に男性・女性がある原文ではどのような文章なのだろう。もっと奇異なのではないだろうか。

 フランス語が読めず残念。 

 

 ところでアルビーヌの最後、「うたかたの日々」のクロエとそっくりなんだけど指摘はあるのだろうか。

 

 

 ゾラはムーレに「子供でいたい」(p147、149)「生きている人間を否定する」(p149)「教会は難攻不落の死」(p198)と言わせる。

 生命、生殖、知性(物知りが聖者とは限らないというセリフがでてくるp133)の否定。

 死に向かい、無ー性(つまり子供)で、思考でなく神への服従を求める。

 しかし、ムーレもアルシャンジアも信仰にどこか性を感じているようにゾラは描いている。

 特にムーレの信仰は「聖書で学んだ」もの。

 それは本当の信仰か?

 

 ムーレは罪を犯した後に初めて本当の苦しみと痛みを味わい、イエスと同じ立場になる(「わが神よ!私を見捨てたもうか」p404)

 そこで彼は真の意味の信仰に到達する可能性があったと思う。

 しかし、ムーレは苦しみの意味を考え抜くのではなく、聖書の文言を機械的に繰り返す存在に戻る。

 

 ゾラが同時代の宗教家たちに何を感じ、何を求めていたかがわかる。 

 読む前に想像していたのと違って驚くほど面白かった。

 

 

Zola, E: La Fault de l'Abbe Mouret, 1875(清水正和、倉智恒夫訳 藤原書房、東京、2003)