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 ご発表内容を勝手に書いていいのかわからないので、私の間違いだらけな梗概、意見、感想、というか要は個人的メモ。

  

 

 犬飼先生のご発表から;

 死の間際だと「私がどう評価されているか」「私はこのようなことを望む」といった自身の思いは無意味になり、エゴイズムは捨て去られる。

 同時に、未来の他者(=歴史)から、自分の行いや生き方を「お前はそれでよかったと思っているか」と問い直される(主観的には自身で問い直す)

 私はそれに対し、「未来のあなた方のためにこのようなことを行い、このようなことを残しました」と弁明することになる(?)

 

 

 石井先生のご発表で;

 ご発表内容とずれるが、私的にはフッサールとヤスパースの違いが明確になった。

 フッサール:感覚は意識の構成要素だが、意識と独立する → 超越論的

 ヤスパース:意識という形式に感覚という内容がある → 基本的に実在論 

  (インガルテンに近いがレヴィナスほどややこしくない)

       厳密な意味で一人称的な経験記述ではない。

       患者が一人称で話した内容を第三者の医者が記録する現象学。

 

 

 佐藤先生のご発表;

 ブノワ先生の指摘:レヴィナスの議論を日常にもってくるのは問題がない(とおっしゃっていた。レヴィナスの議論は”超越”と関係するので、日常の問題に落とし込んでいいのかと思っていた。問題ないらしい。とはいえ、ヨーロッパ人と日本人では”超越”との関係は違いそうなので、やはり引っかかる。ところでドイツ語・フランス語のA ist A, A est Aと日本語のAはAであるは、比較して論じられるのだろうか)

 同じくブノワ先生から:誠実さも重要だが「嘘をつく」も重要ではないか。

 ここにいる者が「私はここにはいません」と言っても、そこに<いる>。

 言葉をはみ出したものが大事ではないか。

 

 同一と同等は違うという議論は面白かったが、一は一つだが、等しいは二つ(以上)なので、よく考えるとそれはそうだという感じ。

 

 

 長坂先生のご発表;

 カントは、時間を<心性の変容Modifikation des Gemuts(ウムラウト略)>とした。

 頑張って純理を読んだのに、そうだったっけかという感じ。こうやって忘れてしまう。

 

 何が先行しているかを論じるとややこしい。

 <他者がいる>は空間時間が前提。

 で、時間は自己触発による。

 で、自己触発は存在者でなく存在(心性)の受け取り・・・でいいのか?

 私の雑な頭には難解なご議論で、誤解していると思う。

 

 

 ブノワ先生のご講演は禁・引用なので、ざっくり感想。

 

 現象学は、顕れについて考えるのだから視覚優位な点があったり、言葉を使って意味を考えるのだから、感性・知覚を厳密に論じきれていないかもしれない。

 ではどうするか。

 

 質疑で面白かったのが、初期レヴィナスは音の議論をしているのに、その後、その点に触れなくなったこと(正確には「存在の彼方へ」で触れている)。

 それはなぜか、あるいは実は潜在的に連続性があるのか。

 

 

 そもそもレヴィナスが音を論じていることを知らなかったので(初期論考集で「現実とその影」で読んだ気もするが、全集第二巻でもっと論じられているらしい。ちなみに彼の息子がスペクトル学派の音楽家になったのはー私は息子演奏のバッハのCDを持っているー関係するのか?・・・あ、質問すればよかった)、仕事なんかに参考になりそう・・・と思うが、レヴィナスの議論は、本人は否定しても、日本人からするとやはり宗教性を感じるので、日常の議論に落とし込んでいいのかよくわからない。

 

 

 

2024年3月3日(日)15:00-17:00 於:立教大学